わたなべ なぎさ渡邊 渚
プロフィール
出生地 日本 新潟県[1]阿賀野市
生年月日 (1997-04-13) 1997年4月13日(27歳)
身長165 cm[2]
血液型O型
最終学歴慶應義塾大学経済学部卒業
勤務局フジテレビジョン
部署編成制作局 アナウンス室[3]
活動期間2020年 -
ジャンル情報・バラエティ
公式サイトフジテレビ・渡邊渚
渡邊 渚(わたなべ なぎさ、1997年4月13日[4] - )は、フジテレビアナウンサー。 新潟県で生まれて小学2年生まで阿賀野市で過ごした[1]。家族は両親と妹がいる[5]。家の周りは田んぼに囲まれ[6]、庭に雉が来たり、クマが出たりと自然豊かなところだった[1]。学校帰りは友達と田んぼの畦道を歌って歩き、近くの小川でザリガニ釣りをしたりといった田舎生活を送っていた[1]。 幼少期に父親は単身赴任したが、2004年新潟県中越地震を機に「家族一緒に生活したい」と両親に伝えて(後述)[5]、愛知県名古屋市で3年間、11歳から神奈川県横浜市で育った[7][8]。 慶應義塾女子高等学校[7][9]で学び、高校2年時にビジネスコンテストの「キャリア甲子園」に出場した。テーマは「2020年にする仕事」[2]。 大学1年時に『ミス慶應コンテスト2016』に出場したものの、コンテストは中止となった[7]。 大学生の頃、同期の佐久間みなみと同じく生島企画室に所属し、タレント活動を行う[10]。 フジテレビとTBSのアナウンススクールに通っていた[11][12]。 2020年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業し、4月にアナウンサーとして入社[13]する。同期入社は佐久間みなみ、コ田聡一朗[14]。 9月5日から『もしもツアーズ』4代目ツアーガイドとして起用された[15]。9月28日から『めざましテレビ』に出演する。『めざましテレビ』の担当日(月・水・金)は、午前2時過ぎに起床する[16]。 2022年3月26日に『もしもツアーズ』4代目ツアーガイドを卒業した。 2023年1月12日から『ぽかぽか』木曜進行アナウンサーとして出演。 2023年7月17日に体調不良のため入院し、しばらく休業することが『めざましテレビ』で伝えられた[17]。7月22日・23日に放送された『27時間テレビ・鬼笑い祭』内での提供読みは不参加となった[注 1]。同年10月、『ぽかぽか』を降板(後任は後輩の原田葵)[18]。 2023年10月22日にインスタグラムを更新し、自身の健康状態について「食べられなくなった。うまく歩けなくなった。うまく指が動かなくなった」などと報告を行うと共に、「幸せを諦めずに生きる。社会復帰できる日を目指して、ゼロから小さな努力をコツコツ積み重ねていく!」と綴り、現場復帰への強い意欲を持っていることを明かした[19]。10月27日にフジテレビの港浩一社長は定例社長会見で渡邊について「退院して通院、治療中です」と説明した[20]。10月28日にInstagramのストーリーズで「今週は体調が悪く、患部の痛みで眠れず、何をしてても辛かった。週4で病院に通い、検査もたくさんしている。27日あたりからやっと落ち着いてきた」と近況について明かした[21]。12月23日に自身のインスタグラムを更新し、ストーリーズで「少し前に大したことない小さい手術をした」ことを明かした[22][23]。 2024年2月13日にインスタグラムのストーリーズを更新し、食生活について「最近お腹が空かなくて日中は紅茶しか飲まず夜になってやっと一食食べる生活」と伝えている[24]。2月16日にインスタグラムのストーリーズを更新し、ファンから「少し前にメニエール病を発症した」というコメントの投稿に対して「今の体調不良と無関係だが、自分も2年前にメニエール病を発症した」ことを明かした[25]。フォロワーから質問を募集した渡邊は、3月11日夜、インスタグラムのストーリーズで60個ほどのさまざまな質問と自身の答えを公開し、その中に「今の症状はワクチン接種が関係しているか」という質問があり、渡邊は「いいえ」とだけ回答した[26]。
来歴
幼少期 - 学生時代
フジテレビに入社
闘病生活
人物
性格
新潟にいた頃は結構サバイバルな幼少期を送っていて「田んぼのあぜ道を走り回ったりしている子だった[27]」「何にもないけれど、すごく満たされた生活だった[1]」という。
せっかちである[27]。かなりの大食漢である[1][6]。ハイカロリーなグルメが大好きである[16]。「うま撮」コーナーのロケは1週間で一番楽しみにしいて、美味しいのと楽しいのとでついつい食べ過ぎて顔がパンパンになっている時もあるという[16]。
それほど心が広くないので、嫌なことをしてきた人は記憶から消去してしまうという[28]。
家族・親族
両親はアルビレックス新潟のファンだったので、よくビッグスワンにサッカーの試合を観に行ったという[1]。
祖父は反物に絵を描く職人で、小さい頃からその姿を見ていた[29]。
叔母がアナウンサーだったこともあり、アナウンサーの仕事に幼少時から憧れていた[30]。建築家になる夢も持っていたが、大学に進学するときに「アナウンサーを目指そう」と決めた[29]。
妹とは大の仲良しで、毎年必ず二人で旅行に行く[6]。
趣味・特技
趣味は建築模型作り・美術館巡り[31]、ボトルシップ作り[28][32]など。
特技はピアノ・テニス・競技かるた・剣道(剣道初段)[14][31]。
小さい頃から新聞広告に入っていた間取り図を見るのが好きで、子供の頃の夢は建築家。2021年、東京都不動産鑑定士協会が主催する「第1回 夢の家!!あったらいいな絵画コンテスト」に応募すると「森の別庭 ?私の隠れ家?」という作品で入賞した[29]。「一点透視図法とか基礎をネットで勉強して何とか描き上げた」という[29]。
中学時代は剣道部、高校時代はバレーボール部[6]、大学時代は乗馬同好会に所属[2]。
めざまし時計をかけなくても定時に起きられる[16]。「遅刻が怖くて、アラームをかけても、その時刻の2分前には目がパッと覚める」という[16]。
2024年1月19日、インスタグラムのストーリーズを更新した渡邊は、「退院してから酵素風呂によく通っている。血流が良くなって身体の芯からポカポカするし、痛みも和らぐのでハマっている」と最近のリラックス法を明かした[33]。
嗜好
小さい頃の自身の写真を見ると、新潟下越地方の屋台菓子「ぽっぽ焼き」を食べている姿がたくさんあって、思い出の食べ物であるという[1]。大人になってからも下越地方へ行くことがあれば屋台を探して必ず食べるという[1]。
学生時代とくに力を入れていたことは「面白いと思ったことに迷わず挑戦する」ことを大切にしていた[30]。あんみつが大好きで、学生時代は日本一美味しいあんみつを求めて国内旅行したりあんみつ専用のSNSを作ったりしていた[30]。
ときめいてしまうタイプの人については「思いやりのある優しい気持ちをもっていてそれを行動に移せる人や、目標に向かって突っ走っている人」と述べている[30]。
好きな男性のタイプは「一緒に木を切ってくれるような人で、のこぎり捌きがきれいだったら感動すると思う」という[6]。
交友関係・結婚観
人から「友達いなさそう、友達少なそう」とよく言われる[28]。自信を持って友人と呼べるのは、同じ高校で出会った同級生3人だけである[28]。
中学生の頃から「玉の輿」という前時代的な言葉が大嫌いである[28]。「将来の不安を男性に解消してもらおう、人に幸せにしてもらおうとする考え方は自分には合わない。男性に頼る人生を送りたくない、養いたいくらい。」という[28]。
資格・免許
漢字検定準1級[34]
その他
自ら、人生や考え方が変わった日として、当時まだ7歳だった2004年10月23日を挙げている。この日は当時住んでいた新潟で新潟県中越地震が発生した日だった。ちょうどこの頃は父が単身赴任中で自宅におらず、母と妹と3人暮らしだった。人生で初めて経験する大きな地震で、当時住んでいた地域の揺れはそれほどではなかったが、母方の祖父母が震源地の中越で被災したこともあり、またテレビなどで連日報道される地震のニュースを見聞きしていくうちに、子供ながら「今生きているということが当たり前じゃない」「いつ死ぬかわからない、みんながみんな天寿を全うできるわけではない」ということを認識させられ、それと共に単身赴任していた父に「父が一人で被災したら誰も助けてあげられない」と思いを寄せて、今自分の家族が分かれて暮らしていることに怖さを感じ、前述のように「家族一緒に生活したい」という思いを自分から両親に伝えたことで生まれ育った新潟を離れる。そしてこの日を境に、毎日寝る前に「家族や大切な人たちが苦しむことなく、明日を笑って過ごせますように」などと必ず寝る前に空に向かって祈ることと、毎年10月に遺書を書くということを始めている。遺書はこの7歳の時から書き続けており、内容は家族や友達らに伝えたいことや金銭関係、自分の葬儀についてのリクエスト、デジタルデータやSNSの後処理についてなど多岐にわたり、そして年に一度この遺書に向き合って考えているという[5]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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