渡邉恒雄
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渡辺恒雄 (工学者)」、「渡辺恒夫 (心理学者)」、「渡部恒雄」、あるいは「渡部恒郎」とは別人です。

渡邉 恒雄
2018年3月、東京ドームにて
生誕 (1926-05-30) 1926年5月30日(97歳)
日本東京府豊多摩郡
(現:東京都杉並区
別名ナベツネ
教育東京大学文学部哲学科卒業
職業

読売新聞グループ本社主筆旭日大綬章
活動期間1950年 -
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渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年大正15年〉5月30日 - )は、日本新聞記者実業家株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆勲等旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られている[1]

株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長を歴任した。

日本プロ野球界に関連する渡邉の伝説は数知れず[2]、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ[3]マスメディアにおいて「球界の独裁者」または単に「独裁者」と呼ばれていることについては渡邉自身が認めている。他にも「メディア界のドン」「政界フィクサー」とも呼ばれる(詳細は後述[4]
生い立ち〜学生時代
生い立ち

東京府豊多摩郡(後の東京都杉並区)出身。父の名は平吉、母の名は花。五人姉弟の三番目で長男である[5]

1934年昭和9年)、恒雄が8歳の時、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身、現:りそな銀行)に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅玄関で突然吐血胃癌で1週間後に47歳で死去した[5]。父が残した十一軒の貸家からの家賃収入で当面の生活費には困らなかったが、稼ぎ手をなくした一家には将来の生活の不安が重くのしかかった[6]。母親の花は、夫を失った打撃からなかなか立ち直れなかった[7]

戦前家父長下では恒雄が全財産を相続し、一家の柱として責任を負わねばならなかった[7]。母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという[8]。「お前は総領だ[8]。総領というのは跡継ぎだ[8]。だからお前は勉強して偉くならないかん[8]。成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の伯父さん[注釈 1] に報告できない[8]。」
学生時代

第一志望の府立高校尋常科(現:都立桜修館中等教育学校)、第二志望の武蔵高校尋常科(現:私立武蔵高校)、第三志望の府立一中(現在の都立日比谷高校)と、続け様に受験に失敗し、ようやく第四志望の開成中(現:私立開成高校)にビリに近い成績ですべり込んだ[9]。同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いたという[9][注釈 2]

1939年(昭和14年)4月、開成中学校に入学。同中学3年生の時、哲学の道を志し、日々哲学書ばかり読むようになる。また反軍国少年であり、旧制高校の記念祭では上級生らと夕闇の中蜂起して、軍国主義を吹聴する校長をはじめ教職員を襲撃して殴っている。勤労動員された航空機の工場では、密かに不良品を作り、抵抗した[10]

1943年(昭和18年)4月、開成4年修了で旧制東京高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校高等部)に入学。網野善彦氏家齊一郎が尋常科四年に進級した1943年(昭和18年)4月、一学年上の高等科に入ってきた[11]。氏家によると、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭であった[12]。以来、2人は共に軽演劇場や純喫茶に繰り出す仲になった[12]

1945年(昭和20年)4月、東京帝国大学文学部哲学科に入学。その後陸軍に徴兵され、近衛師団に配属。本土決戦に備えて神奈川県に配置された[13]。渡邉の回顧録によれば陸軍二等兵としての軍隊生活で上官から暴行を受けたという[14]。渡邉はもし、米軍が上陸したら真っ先に降伏しようと考えていたという。そのために捕虜になった時のことを考えて、千葉県あたりに置かれる可能性がある捕虜収容所で過ごすための哲学書を3冊肌身離さず持っていた[15]。同年8月半ばに除隊の内示を受け、8月15日の朝に除隊。除隊日の正午からの玉音放送で終戦となる。除隊後は千葉県の家族の下で休養。3ヶ月後に東大に復学した[16]

前述の学徒動員時代に陸軍の上官から受けた暴行などから軍人や国粋主義国家主義的な考えを嫌悪していた。そこで、東京大学在学中の1945年12月、反天皇制を掲げていた日本共産党に入党を申し込む。日本青年共産同盟の同盟員としてビラ貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験して、1947年頃、正式な党員として認められる。東大細胞(共産党が地域・職場・学園などに設けた末端組織の旧称、現在の「支部」)に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やした。1947年9月、カスリーン台風の被害に対する共産党の考えをきっかけに党の思想に疑問を抱き、反マルクス主義の東大新人会運動の展開を開始。


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