渡邉 光男(わたなべ みつお、1948年9月27日[1] - )は日本のテレビディレクター・テレビプロデューサー。株式会社渡邉光男計画CEO。
フジテレビにてプロデューサー・ディレクターを務めた。
わたなべみつお
渡邉光男
生誕 (1948-09-27) 1948年9月27日(75歳)
日本 東京都
国籍 日本
出身校日本大学芸術学部放送学科
職業実業家 プロデューサー
演出家(ディレクター)
活動期間1971年 -
代表作『夜のヒットスタジオ』
『FNS歌謡祭』
『スターどっきり?報告』
『しゃぼん玉』
『振り返れば奴がいる』
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人物・経歴
1948年三人兄姉の末っ子として東京都に生まれる。1971年日本大学芸術学部放送学科卒業業後、フジテレビ入社。フジテレビ系列会社であったワイドプロモーションにも所属し、夜のヒットスタジオのAD・FDを担当する。
1977年に当時アイドルだった麻丘めぐみと電撃結婚、一女をもうける。会見の模様は、ワイドショーのみならず、担当していた『夜ヒット』でも1977年6月27日に放送された。1983年に協議離婚、一女は麻丘が親権をもった。
異動により一時期『夜ヒット』の現場を離れるが、1987年7月にプロデューサーだった上司の疋田拓が人事異動で制作現場を離れることにより、7月から森正行とWプロデューサーとして担当となり疋田の後を継いだ。
夜ヒット終了後も定期的にスペシャル番組を担当、また当時のトレンディードラマの制作にもプロジェクトプロデューサーとして携わった。
1996年にニューヨーク支局へ異動。スペシャル番組「夜ヒットinニューヨーク」を制作し、司会だった明石家さんまから番組中に「プロデューサーの渡邉っていうのがニューヨーク勤務になったちゅうーて、「日本からみんなを呼んでここで夜ヒットやれ」ってなってみんなここへ来ることになったです」とエピソードを披露された[2]。
2000年に帰国、事業局に配属になったが2008年にフジテレビを退社しイベント関係や番組制作会社の「株式会社渡邉光男計画」を設立し代表CEOとなり以後も番組演出など番組プロデューサーとなる[3]。
夜のヒットスタジオ
夜ヒット担当時代は、疋田時代の独特のカメラ割りや大量のスモーク(ドライアイス)の演出は引き継ぐものの、斬新かつ実験的な演出は減り、バリライトなどの照明や電飾セットを目一杯派手にさせ、番組のメインセットを覆い隠すセットを多用していた。この頃から、スタジオライブ(4スタライブ)や総集編を頻繁に行うようになった。
番組のキャスティングでは、バーニングプロダクション所属だった小泉今日子・郷ひろみ・細川たかしを始め、松田聖子・薬師丸ひろ子・CHAGE&ASKA、ジャズ・フュージョン界からは、渡辺貞夫・日野皓正・近藤等則などを出演させた。特に田原俊彦は番組最終回のトリに抜擢させた[4]。「男2(おとこのじじょう)」や夜ヒットにおいて構成担当していた木崎徹が、ロック・ニューミュージック系アーティストとの人脈が深く、意向を汲み、久保田利伸・米米CLUBなど当時の若手アーティストを度々起用させた[5]。また、当時テレビ出演は殆どしなかった松山千春・矢沢永吉を番組に出演させた。
また、世界各地(ロンドン・ザルツブルク・パリ・香港)からの衛星完全生中継、さらに1000回記念番組の総合演出も担当した[6]。
その一方で、演歌歌手のキャスティングを狭めたためか、1990年12月の「夜のヒットスタジオ大感謝祭スペシャル」において、沢田研二は「一時ヒットスタジオはほとんど演歌だったのが、(演歌歌手が)1人しか出なくなったのが間違いだった[7]」と発言したことに対して、五木ひろしは、「演歌を縮小させたのが番組がなくなる原因だった」「番組を作るプロデューサーが一番理解していなかった」と暗に渡邊を批判した[8]。生前の美空ひばりも、沢田と同様の意見を述べていた[9]。
司会者のキャスティングでは、実力よりも話題性を取り入れ、男2人のニューヨークスタイルの司会を意識して柴俊夫、当時歯に衣着せぬ毒舌ぶりや奔放なキャラクターで注目を浴びていた加賀まりこを司会者として起用させた。
服部克久との交友も深かったためか、担当期間には特別指揮やアレンジも度々担当した。1990年3月21日の放送で、工藤静香「くちびるから媚薬」や小泉今日子「見逃してくれよ!」披露時には、国際花と緑の博覧会の音楽担当で滞在していた大阪の関西テレビのスタジオを結んでピアノ伴奏を行った。SUPERでは、克久の息子である服部隆之を指揮に抜擢した。