渡辺錠太郎
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渡辺錠太郎
生誕 (1874-04-16) 1874年4月16日
日本 愛知県小牧町(現・小牧市[1]
死没 (1936-02-26) 1936年2月26日(61歳没)
日本 東京府杉並区
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1894年 - 1936年
最終階級 陸軍大将
墓所多磨霊園
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渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年明治7年)4月16日 - 1936年昭和11年)2月26日)は、日本陸軍軍人陸士8期陸大17期首席。最終階級陸軍大将。位階勲等は 従二位勲一等功五級
経歴

1874年(明治7年)、愛知県小牧町(現・小牧市)に生まれる[1]。煙草商である和田武右衛門の長男であったが、19歳の時に[1]、同県岩倉町(現・岩倉市[1]の母親の実家である農業・渡辺庄兵衛の養子となった[2]。貧窮のために小学校を中退せざるを得なかった[3]。満20歳となった1894年(明治27年)4月に徴兵検査を受けて甲種合格し[4]、同年8月[4]陸軍士官学校の召募試験に合格し[4][5][注釈 1]、陸士8期を卒業して陸軍歩兵将校となった[2]

1903年(明治36年)、陸軍大学校17期を首席で卒業した[6]歩兵第36連隊中隊長として日露戦争(1904年 - 1905年)に出征して戦傷を負ったが、その後は参謀本部での勤務、海外での勤務が多く、最小限の隊付勤務(渡辺は連隊長を経験していない)で将官となり、陸軍大将に親任された。1936年(昭和11年)、教育総監軍事参議官に在職中に二・二六事件が起き、自邸を襲撃した反乱軍に殺害された。61歳没。
教育総監就任と二・二六事件多磨霊園にある渡辺の墓多磨霊園の墓の入口にある顕彰碑

1930年代前半、陸軍では皇道派が実権を握っていたが、その中心人物であった荒木貞夫陸相は昭和維新の断行を求める青年将校の突き上げに応じなかったため急速にその名望を失い、1934年に病気を理由として陸相を辞任した。

陸相の後任には荒木や真崎甚三郎と親しくしていた林銑十郎が就任し真崎は教育総監に回った。


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