渡辺 又三郎[1](わたなべ またさぶろう[2][3]、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:渡邊又三カ[2][4][5]、旧名:田上 豐之助[5]、1850年(嘉永3年4月) - 1910年(明治43年)7月18日[2])は、日本の武士(広島藩士)[3][6]、弁護士、政治家。衆議院議員(広島県第一区選出、当選3回)[2]。第8代広島市長[1]。族籍は広島県士族[4][7][8]。 広島藩士であり[3]、藩儒某の門に入って漢学を学ぶ[5]。19歳の頃武官となり、次に一中隊の長に挙げられる[5]。藩銃隊副役を務める[2]。1877年(明治10年)、代言人試験に合格し[5]、代言人免許を得る[8]。広島代言人組合副会長、同会長などを務めた[2][5]。 1888年(明治21年)、広島県会議員に当選し、副議長、市部会議長を歴任した[5]。また1889年(明治22年)、広島市会議員にも当選し、議長に選出された[5]。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。3期務めた。中央交渉部(井上組)に所属[9]。第13議会解散後に候補を串本康三に譲る[3]。 渡邊は広島市議会において広島市長の推薦を受け、東京で事業をしていたが病をおして帰郷し[4]、1909年(明治42年)9月9日に広島市長に就任、1910年(明治43年)7月3日に退任した[1]。中国新聞を創刊する[2]。 幼名・田上豊之助で、後に渡邊家を嗣ぎ、又三郎と改める[3]。藩主と昵懇だった[3]。 渡邊は広島市長として市政を病床で指揮していたが、1910年(明治43年)7月18日に死亡した[4]。その間1日も市庁舎には出勤することはなかった[4]。 1899年(明治32年)8月に妻を亡くした渡邊は、田上諸蔵の家で寝起きしていたが、咽喉癌が進行したため1910年(明治43年)6月、平塚町に住宅を構えた[4]。
経歴
人物
家族・親族
渡邊家
長男・哲郎 - 北海道で教育事業をしていたが1906年(明治39年)6月に自殺した[4]。
次男・英麿 - 1937年(昭和12年)10月に死亡[4]。
三男・省三(1884年 - 1970年、洋画家、カフェー・プランタン経営) - 松山廣居の養子となる[4]。歌舞伎俳優河原崎国太郎の実父である。
四男・寧道(1886年 - ?、耳鼻咽喉科医師) - 横山金太郎の養子となる[4]。
長女(1868年 - ?、広島、横山金太郎の妻)[7]
親戚
長女の夫・横山金太郎(弁護士、広島市長、衆議院議員)[7]
脚注^ a b c ⇒歴代広島市長広島市サイト。2022年4月25日閲覧。
^ a b c d e f g 『議会制度七十年史 第11』
^ a b c d e f 『日本現今人名辞典』
^ a b c d e f g h i j 戦前期広島の弁護士名簿(2) - 代言人・弁護士の履歴書 - 広島修道大学「明治期の法と裁判」研究会 増田修。554(232) - 556(234)頁。
^ a b c d e f g h 『日本帝国国会議員正伝』