この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "渡辺千秋"
この項目では、戦前日本の官僚・政治家・華族について説明しています。アイドル歌手・女優(長門市議会議員の田中千秋)については「渡辺千秋 (歌手)」をご覧ください。
渡辺千秋
渡辺 千秋(わたなべ ちあき、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:渡邊 千秋、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉 - 1921年〈大正10年〉8月27日)は、明治・大正期の日本の官僚[1]。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵[2][3]。 信濃国諏訪郡東堀村(現長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺斧蔵政徳の子として生まれる。楓関と号する。生家は、岡谷市長地柴宮に旧渡辺家住宅として保存されている[4]。 明治維新後鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任する。大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年4月宮内大臣に就任する。1911年4月朝鮮併合の功により伯爵になるも、渡辺に何の関係があるのかと疑を生じ、井上馨も大いに憤慨する。元老などにも一言の交渉もなく、桂太郎が渡辺と結託して互いに陞爵を上奏したときの密約だと言われた。1914年4月に辞任する。その理由として、宮内省が武庫離宮造営のために西本願寺須磨別邸を買い上げた際に、賄賂の授受があったためとされる。この背後には、渡辺が山縣閥であったことを、時の第1次山本内閣の法相奥田義人が嫌ったことがあるという説もある[5]。ちなみに、後任には山縣有朋との関係の薄い波多野敬直が任じられた。なお、辞任直前の4月9日に昭憲皇太后が崩御したが、公式には4月11日崩御と発表された。発表が丸2日ずらされたのは、内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた渡辺を急遽更迭させるための措置であったという。 蒐書家として知られ、多くの古典籍や古筆切などを蒐集した。
人物
略歴
1843年 父・諏訪高島藩士渡辺斧蔵、母・ふきの長男として、信濃国諏訪郡東堀村(現岡谷市長地柴宮)に生まれる。幼名は鍋八郎[6]。
1858年 高島藩に出仕
1869年 伊那県に出仕
1875年 筑摩県権参事
1876年 東京上等裁判所判事
1877年 西南戦争 鹿児島県大書記官
1880年 鹿児島県令 西南戦争後の民心の安定と産業の振興に尽力、勧業課に白野夏雲を抜擢。
1886年 鹿児島県知事
1890年 行政裁判所評定官
1891年 滋賀県知事(5月) 北海道庁長官(6月)
1892年 内務次官
1894年 貴族院議員(1月29日[7]) 京都府知事(11月)
1895年 大日本武徳会初代会長。宮内省内蔵頭
1900年 男爵
1904年 宮内省御料局長兼務 皇室財産整備法制定に尽力
1907年 子爵
1908年 宮内省内蔵頭兼帝室林野局長官
1909年 宮内次官兼内蔵頭兼帝室林野局長官兼枢密顧問官、貴族院議員辞任(6月22日[8])
1910年 宮内大臣
1911年 伯爵
1912年 大喪使副総裁
1913年 大礼準備委員長
1914年 宮内大臣を辞す。隠居し、家督と爵位を次男の渡辺千春に譲る[9]。
1921年 死去(78歳)
栄典
位階
1876年(明治9年)1月25日 - 正七位[10]
1877年(明治10年)5月30日 - 従六位[10]
1880年(明治13年)7月1日 - 従五位[10]
1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[10][11]
1889年(明治22年)3月7日 - 従四位[10]
1894年(明治27年)2月28日 - 正四位[10][12]
1896年(明治29年)1月17日 - 従三位[10][13]