渡辺はま子
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渡邊 はま子
「支那の夜」宣伝スチールの渡辺はま子(1938年)
基本情報
出生名加藤 濱子
生誕1910年10月27日
出身地 日本 神奈川県横浜市
死没 (1999-12-31) 1999年12月31日(89歳没)
学歴武蔵野音楽学校
(現武蔵野音楽大学
ジャンル歌謡曲
職業歌手
担当楽器
活動期間1933年 - 1989年
レーベルビクター
日本コロムビア

渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日[1] - 1999年(平成11年)12月31日[1])は戦前から戦後の日本の歌謡界で活躍した女性流行歌手。神奈川県横浜市[1]平沼出身。本名 加藤 濱子[1]。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。
経歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "渡辺はま子" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年11月)

横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡邊は、美貌で知られた歌手であった。母方の祖父が日系アメリカ人だった。1929年(昭和4)捜真女学校普通科卒業[2]
デビューからビクター移籍

1933年(昭和8年)「武蔵野音楽学校」(後の武蔵野音楽大学)卒業[1][2]立松ふさ[3]に師事。卒業後は、横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが[1][2]、同年にポリドールの歌手テストを受け、『山形新聞』懸賞入選の新民謡「最上川小唄」を吹き込む[1]。ポリドールでは結局この1曲のみで終わった。音楽学校在学中に指導を受けた徳山lの推薦もあり、同年12月にビクターから「海鳴る空」でデビューした。

1934年(昭和9年)、日比谷公会堂で開催されるビクター歌手総出演のアトラクション「島の娘」に主演のはずであった小林千代子が突然失踪する。急遽 渡辺が代役に抜擢され、漁師の娘を演じる。以降ビクター在籍中はアトラクションに度々出演し、藤山一郎古川ロッパらの相手役を務めている。

同年のJ.Oスタヂオ映画『百万人の合唱』に出演するために勤務先の横浜高女を休んだことが問題になり、保護者らが学校に抗議。これが新聞沙汰となる。1935年(昭和10年)の秋には教職を辞し[1]、渡邊はビクターの流行歌手に専念することとなる。同年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇「小島の春」のラジオ主題歌「ひとり静」を歌い、初のヒット曲となる。この曲をきっかけに、渡邊は終生を通じ、ハンセン病患者の病院の慰問を続けた。特に岡山愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている。
「ネエ小唄」騒動

1936年(昭和11年)、「忘れちゃいやヨ」をレコーディング。作曲者の細田義勝に歌中の「ネエ」の部分の歌い方を何度も指導されて、本人は辟易して歌ったが、その直後に早稲田大学野球部の応援歌の発表会で歌ったところ、観客に大ウケしたため、本人にもヒットの予感があったという。ところが、発売から3ヵ月後、ちょうどヒットの兆しが見えた頃に、内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』と指摘され、ステージでの上演とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。

ヒットを惜しんだビクターは、改訂版として「月が鏡であったなら」とタイトルを変更し歌詞の一部分を削除してレコードを発売、大人気を得る。しかし、このヒットによりこの種の曲『ネエ小唄』ブームが起こり、「あゝそれなのに」(美ち奴、のち発売禁止)「ふんなのないわ」(ミス・コロムビア)「憎いわね」などの類似曲を続々と生み出す結果となった。この状況を快く思わなかった軍部が主導になり、日本における流行歌の傾向を意図的に変えさせようと、「国民歌謡」を誕生させるキッカケとなる。渡邊も続いて、「とんがらかっちゃ駄目よ」をヒットさせるが、ビクターの内紛と一連のネエ小唄騒動で、1年間の休業をすることになった。
コロムビア移籍

1937年(昭和12年)4月、コロムビアに移籍。翌年、皮肉にも流行歌の浄化を統制された国民歌謡の「愛国の花」が、渡邊にとっての移籍後のヒット曲第一号となる。この頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「支那の夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。そのため、慰問先の満州から松平晃が持ち帰った「何日君再来」(訳詞長田恒雄)も渡邊が唄い、レコードが日本で発売されることになった。

さらに、当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビアから国内で日本語で発売する際には、渡邊がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といった曲は渡邊、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。

1941年(昭和16年)、渡邊が新聞に掲載された記事に感動し、是非とも歌謡曲としてレコード化したいと台湾総督府に申し入れ、レコード・リリースした「サヨンの鐘」もヒット。その後も「風は海から」「花白蘭の歌」など、日本のトップ歌手して活躍。スクリーンにおいても既に1937年(昭和12年)に新興映画『庭の千草』に主演していた他、東宝映画ロッパ歌の都へ行く』『ロッパの新婚旅行』『エノケンの孫悟空』などに出演している。特に『ロッパの新婚旅行』では、声楽家役として出演し、クラシックの歌曲を原語で高らかに歌い上げているのは、元音楽教師の面目躍如であった。
戦後

戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされる。が、その間も渡邊はま子は、日本人捕虜仲間を美しい歌声で慰めることを忘れなかった。日本へ帰国後、外地から引き揚げてきた兄とようやく再会する事ができるが、不慮の病で失うという不幸に見舞われた。

1947年(昭和22年)に結婚し、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けた。

1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共に、祖父の眠るアメリカ各地を公演。帰国後は、古巣のビクターに移籍し、「火の鳥」「桑港のチャイナ街」などのちに代表曲となるヒット曲を出す。


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