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渡瀬 庄三郎(わたせ しょうざぶろう、1862年12月31日〈文久2年11月11日〉 - 1929年〈昭和4年〉3月8日)は、日本の動物学者。名前は荘三郎とも表記。
東京帝国大学動物学教室第5代教授。日本哺乳類学会初代会頭。沖縄島へマングースを移入したり[1]、ウシガエルを輸入した人物として知られる。米国ウッズホール
(英語版)にあるMarine Biological Laboratory(MBL)に学生および講師として滞在した最初の日本人。幕末の江戸に生まれ、少年期の7?13歳を沼津で過ごす。沼津兵学校附属小学校を卒業後に上京し、東京英語学校、東京大学予備門を経て、1880年(明治13年)、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学。卒業後ただちに東京帝国大学理科大学動物学教室に入学、教室の第3代教授であった箕作佳吉に師事し、箕作と後に第4代教授となる飯島魁の下で、セミの発音器と金魚の尾鰭の発生について研究。その後、箕作と同様に、米国ジョンズ・ホプキンズ大学のウィリアム・キース・ブルックス
(英語版)(英: William Keith Brooks)のもとに留学。理学博士となり、1890年よりクラーク大学(英語版)助手として頭足類の複眼の形態学的研究を行い、シカゴ大学では教授として教鞭をとった[2]。渡米後十余年を経て帰国。1910年、東京帝国大学に動物学第三講座が増設されると同講座の初代教授に就任し、細胞学・組織学を講義した。1924年に東京帝国大学を退職。渡瀬は頭足類の発生、生物発光などを研究したが、大きな方向性としては、生物地理学および応用動物学
を志向した。前者の例としては、渡瀬線[3]の発見がよく知られている。渡瀬は南西諸島の生物相を検討するうち、屋久島・種子島と奄美群島の間(厳密にはトカラ列島の悪石島と小宝島の間)に、生物地理区の旧北区と東洋区を分割する分布境界線が存在することに気づき、1926年(昭和元年)にこれを発表した。この分布境界線は、現在も渡瀬線(渡瀬ライン)の名で知られている。
また、後者では、シロアリ等の害虫の駆除法の研究や、養狐業の指導を行った。実験用としてウシガエルをはじめて輸入し、1910年にはハブやノネズミの駆除を目的として沖縄島へフイリマングースを移入した。これらは結果的にウシガエル、アメリカザリガニ(ウシガエルの餌として輸入されたが野生化)、マングースといった有害な外来種を、日本に招来し生態系に影響もたらすことになってしまった。ことにマングースはハブやネズミの駆除に役立たなかったばかりかヤンバルクイナやアマミノクロウサギなどへの影響が疑われるほか、養鶏に対する深刻な被害も発生しており駆除対象となっている[4][5]。
1928年(昭和3年)、蜂須賀正氏と共に日本生物地理学会を創設している。