渡瀬マキ
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渡瀬 マキ
出生名渡瀬 麻紀(わたせ まき)
生誕 (1969-02-22)
1969年2月22日(55歳)
出身地 日本 三重県鳥羽市
ジャンルJ-POP
職業.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

歌手

作詞家

タレント

配偶者平川達也
事務所

アップフロントクリエイト
(2013年10月 - 2023年3月)
(業務提携:2023年4月 - )

ティンカティンカ
(2023年4月 - )

共同作業者

LINDBERG

佐藤準

月光恵亮

上田ケンジ

公式サイト渡瀬マキプロフィール

渡瀬 マキ(わたせ マキ、1969年2月22日 - )は、日本歌手タレント1986年に芸能界デビュー、1987年アイドル歌手としてデビュー。1988年に結成(2002年に一時解散したのち2014年に本格再始動)されたバンド「LINDBERG」のボーカルとして知られる。夫・平川達也と設立したティンカティンカ所属(アップフロントクリエイトと業務提携)。
パーソナルデータ

本名:平川 麻紀(旧姓:渡瀬)

誕生日:
1969年2月22日

出身地:三重県鳥羽市

身長:156cm

血液型:O型

ニックネーム:チャンマキ

来歴

小学生の頃から
松田聖子に憧れ、ドライヤーで聖子ちゃんカットを作り、母親のイヤリングを借りてなりきり、妹と共に歌っていた。

歌手を目指し、中3から名古屋市のジャパン・アーチスト・オフィスにて歌唱などを学ぶ。レッスン費用と鳥羽駅?名古屋駅の近鉄特急の運賃を自身のアルバイトで捻出し、電車内では尾崎豊、レベッカなどの曲を聴いていた。

1986年、約8千人応募の中「1986ヤングジャンプクイーン」グランプリを受賞して芸能界入り。東京に転居し三重県立鳥羽高校から東京都立代々木高校に転校し、卒業。本名の渡瀬麻紀として活動を開始し、同年10月からフジテレビ正義の味方株式会社』にレギュラー出演。   

事務所では、万が一悪いニュースで取り上げられた際に、本名では故郷に帰れなくなるなどの不都合を心配し、鳥羽市出身の演歌歌手鳥羽一郎にあやかり、鳥羽麻紀と命名しようとする。しかし、本人はそれを断って、本名の渡瀬麻紀でデビューすることにした。

1987年6月、「パールモンド・Kiss」でアイドル歌手としてデビュー。当時のキャッチフレーズは「真珠のような女の子」(出身地である鳥羽に因んで)。同期デビューには、森高千里永井真理子酒井法子畠田理恵BaBe立花理佐石田ひかり仁藤優子などがいた。

1988年、アイドルとして活動していることに違和感を覚えており、事務所が用意したアイドル衣装ではなく、内緒で持参したボロボロジーンズにロックTシャツでステージに上がり、周囲を驚かせる。当然事務所の社長に呼び出され叱られるが「何か違う気がするんです」と葛藤を訴える。協議の結果、社長により「じゃあ、デパート屋上じゃなくてライブハウスにして、カラオケやめて生バンド演奏にしようか」と路線の変更を決定。その意を受けた音楽プロデューサー佐藤宣彦が名ギタリスト土方隆行に師事していた(後のLINDBERGギター)平川達也を見出しバックバンドを結成。

1988年、バックバンドの平川達也と雑談中に、何気なく自作の詩を見せたところ「折角だから曲をつけてあげるよ」と平川が持ち帰り、数日後に完成した曲が初作品の「MINE」であり、自身の想いを綴った詩が歌になったことに感動した渡瀬はその後も数多くの曲を生み出すこととなる。「MINE」はアイドル時代最終期に歌われ後にLINDBERGTに収録(作詞渡瀬麻紀と記載)される。初作品であるが、飾り気なくストレートに寄り添う歌詞である上、それをひたむきに歌う渡瀬の姿と歌声が相まって多くのファンが癒されると共に、LINDBERGが始まった曲としてファン達から大切にされ続け、2022年のファン投票で数百タイトルあるLINDBERG名義の曲の中から1位に選ばれた。

1988年、アイドル時代のバックバンドメンバーの平川達也、平川の音楽仲間で周囲から一目置かれる存在であった川添智久、平川の高校の先輩で既にプロドラマーとして技術に定評のあった小柳昌法と共に、バンド「LINDBERG」を結成。1989年にデビュー。

1990年4月から1991年12月まで『オールナイトニッポン』木曜2部のパーソナリティを担当。

1995年、渡瀬マキ名義でのソロアルバムをリリース。

1997年10月16日、平川達也と結婚。

1999年11月6日、長男を出産。

2002年8月24日、LINDBERGが解散。その後、音楽活動を休止する。

2003年8月26日、長女を出産。

2006年、自身がプロデュースした子供服ブランド「Ontembaar」[1]を立ち上げる。

2007年5月、長男がファンであるという子供番組『モンすたージオ』のテーマソング作成の依頼を受け、解散以来5年振りの新曲「色々iroiro」(作詞:渡瀬マキ、作・編曲:平川達也)を発表。2007年11月21日発売の『いっしょにうたおう モンすたベスト』に収録される[2]

2008年、平川達也とのユニット「スマイルゴーラウンド」を結成。

2008年12月15日、2009年2月22日の40歳誕生日(初のソロ)ライブ「Present」開催を発表[3]

2009年2月のソロライブ「Present」にて、同年12月31日まで期間限定のLINDBERG再結成を発表。

2010年、平川達也とのユニット「タツマキ」を結成。

2013年10月、所属事務所をアップフロントクリエイトへ移籍。

2014年1月、LINDBERGが結成25周年を迎えるのに伴い、4年ぶりに再始動することが明らかとなった[4]

現在、2児の母として、また子供服のデザイン・販売、詩の提供など行い、「タツマキ」としても精力的に活躍中。また、タレントとして情報番組やバラエティ番組にも出演。

2015年5月7日、第8回ベストマザー賞音楽部門を受賞[5]

2018年4月11日、「機能性発声障害」と診断されたことを明らかにする[6]

2023年3月末をもってアップフロントクリエイトとの専属マネージメント契約を終了し、業務委託に変更(発表は同年3月23日)[7]

2023年4月1日、平川達也と株式会社ティンカティンカの立ち上げを発表[8]

人物
家族

夫(
平川達也)、息子、娘がいる。

息子が幼稚園に入った頃から弁当を作り始めて、そのうち娘も幼稚園に入ったので途切れることなく[9]朝6時には起きて[9]16年間弁当を作り続けた[10][11]。弁当最終日には「本日を持ちましてお弁当製造係から母ちゃん卒業します。イェイ!年少さんから今日まで母ちゃんのお弁当を食べてくれてありがとう」という手紙を添えていたという[9]。『ジェーン・スー 生活は踊る』(2022年2月15日放送)では平川の仕事部屋からリモート出演をして、弁当の作り方のコツを伝授した[10][11]

子供達から「マキちゃん」と呼ばれている。

本人曰く「ドジなお母さんやもんで、週4で寝坊する」と語り「起きる気ないやん!」とつっこまれた事がある。

交友関係

岸谷香 - 家を訪問したり食材調味料の情報交換をする関係である[11]

森高千里-デビュー同期の親友

永井真理子 -デビュー前からの友人で現在も交流がある。2023年、自身のTwitterで渡瀬と二人で食事をした時の写真を紹介している。    

久宝留理子 - 渡瀬と永井真理子とはデビュー前からの共通の友人で現在も交流があり、2020年に3人で食事をした時の写真が公開されて話題になった。


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