わたり ふみあき
渡 文明
生誕 (1936-10-03) 1936年10月3日
大日本帝国 東京都
死没 (2020-12-24) 2020年12月24日(84歳没)
出身校慶應義塾大学経済学部経済学科
職業石油実業家
受賞従三位(2020年)
旭日大綬章(2014年)
内閣総理大臣発明賞(2007年)
ルーマニア国家勲章
渡 文明(わたり ふみあき、1936年(昭和11年)10月13日 - 2020年 (令和2年) 12月24日 )は、日本の実業家。従三位。日本石油副社長、日石三菱社長、新日本石油代表取締役社長・会長、JXホールディングス相談役。社団法人日本経済団体連合会副会長、石油連盟会長、第33期慶應義塾評議員、日本赤十字社理事、日本経団連評議員会議長(第5代)などを歴任。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}社名等にも関連して「新日本石油の生みの親」といわれる[誰によって?]。
2008年(平成20年)には、ルーマニア政府より「ルーマニア国家勲章」を授与された[1]。 東京都赤坂生まれの島根県邑南町育ち。1904年8月30日生まれの父・渡弘文は、島根県大田市大家地区の名家出身で、関西学院大学卒業後沖島鎌三衆議院議員私設秘書、大阪海上火災保険従業員などを経て、協営商会設立に参画。文明の名は沖島鎌三衆議院議員による命名。1909年12月17日生まれの母・鈴は、島根県阿須那村(現邑南町)で造り酒屋・池月酒造を営み、特定郵便局長などを務める地主・末田家出身。従兄弟伯父には画家の末田利一
来歴
経歴
1936年 東京都赤坂生まれ
1944年 島根県邑南町に疎開、阿須那国民学校(現邑南町立阿須那小学校)に編入学
1947年 世田谷区立祖師谷小学校編入学
1952年3月 成城学園中学校卒業
1955年3月 成城学園高等学校卒業
1960年3月 慶應義塾大学経済学部経済学科(山本登ゼミ・矢内原勝ゼミ)卒業
1960年4月 日本石油株式会社入社、同社新潟製油所運輸課勤務
1964年3月 日本石油株式会社 大阪支店販売調整課勤務
1970年4月 日本石油株式会社 販売部黒油課勤務
1970年5月 日本石油株式会社 販売部黒油課係長
1972年 日本石油株式会社 販売部白油課ガソリン担当係長
1973年 労働組合本社支部副委員長兼務
1978年3月 日本石油株式会社 販売2部燃料課課長代理
1981年 日本石油株式会社 販売2部燃料1課長
1984年 日本石油株式会社 販売1部販売課長
1990年 日本石油株式会社 販売部長
1992年 日本石油株式会社 取締役販売部長
1995年 日本石油株式会社 常務取締役
1998年6月 日本石油株式会社 副社長
1999年4月 日石三菱株式会社 副社長
2000年6月 日石三菱株式会社 代表取締役社長
2003年 石油連盟 会長( - 2008年)
2005年6月 新日本石油株式会社 代表取締役会長
2006年 社団法人日本経済団体連合会副会長( - 2010年)・広報委員長( - 2007年)
2008年 ルーマニア国家勲章受章
2010年4月 JXホールディングス株式会社 相談役
2010年5月 一般社団法人日本経済団体連合会評議員会議長
2011年9月 学校法人成城学園理事
2012年3月 一般社団法人日本経済団体連合会審議員会議長( - 2014年)
2012年5月 学校法人成城学園副理事長
2013年 株式会社民間資金等活用事業推進機構代表取締役社長、日本郵政株式会社 取締役
2014年4月 旭日大綬章受章[2]
2014年6月 学校法人成城学園理事長、JXホールディングス株式会社 名誉顧問[3][2]
2020年12月24日 急性心筋梗塞のため死去[4]。84歳没。死没日をもって従三位に叙される[5]。
日本石油
東京市中之町尋常小学校付属幼稚園(のちの港区立中之町幼稚園)、乃木国民学校(のちの港区立赤坂小学校)を経て太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年から母とともに母の実家のある島根県邑南町に一時疎開し、阿須那国民学校に編入した。その後、末田家養子入りの話を断り、1947年帰京。祖師谷の新築の家に住み、世田谷区立祖師谷小学校を経て、成城学園中学校・高等学校に進学。中高では柔道部に所属した。高校卒業後、1年間の浪人を経て慶應義塾大学経済学部に入学。数学が得意でもともと理工系が好きだったが、技術者ではなく経営者を志して大学受験では文系の学部を受験。東京商科大学(現・一橋大学)と早稲田大学にも合格したが、蹴って慶應義塾大学へ進学した[6]。山本登ゼミを経て入った矢内原勝ゼミの第一期生で、始めは三菱商事や三井物産などの商社や、東京海上火災保険、丸善石油志望だった。
1960年に慶應義塾大学経済学部を卒業。父と親しかった十条製紙社長・金子佐一郎の紹介で日本石油の坂牧善一郎常務から推薦状を得て、同年名前も知らなかった日本石油株式会社に入社。直後に新潟製油所運輸課に配属され、原油の袋詰をトラックに積んで回収して回るという業務をこなす。この時の「油々寮」の4年先輩にいた島村宜伸らとともに麻雀や半玉との合コンをしたりした。
1964年3月、慶應義塾大学同窓にあたる上司の新潟製油所運輸課長から推薦状をもらい、大阪支店販売調整課に異動。神戸市の甲南女子大学近くの独身寮に住み、宝塚歌劇団団員を招き寮祭を開いたりした。1966年結婚し東京ヒルトンホテル(のちのキャピトル東急ホテル)で結婚式を行った。1940年1月1日生まれの妻・新子は、4歳年下で、雙葉高等学校を経て共立女子大学卒業後家事見習いをしていたところ、文明と見合いで知り合った。