北海道駒ヶ岳
大沼南岸から望む北海道駒ヶ岳
標高1,131[1] m
所在地 日本
北海道森町、鹿部町、七飯町
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度03分48秒 東経140度40分38秒 / 北緯42.06333度 東経140.67722度 / 42.06333; 140.67722
北海道駒ヶ岳(ほっかいどうこまがたけ)は、北海道森町、鹿部町、七飯町にまたがる標高1,131 mの活火山(成層火山)である。渡島国・渡島半島のランドマークにして、大沼国定公園のシンボルともなっている[2]。
江戸時代の旧称は内浦岳で、蝦夷駒ヶ岳(えぞこまがたけ)、渡島駒ヶ岳(おしまこまがたけ)とも呼ばれる。富士山型の紡錘状の山容から谷元旦が描いた絵画が渡島富士(おしまふじ)と呼ばれ、郷土富士となっている。
「北海道」を冠するのは全国に多数存在する同名の山と区別するためであり、地元、北海道では単に駒ヶ岳と呼ばれている。また、所在地の森町には、駒ヶ岳という地名(字)が存在し、同名の鉄道駅 駒ヶ岳駅もある[3][4][5]。 渡島半島の内浦湾の南岸に位置し、濁川カルデラから約20km。剣ヶ峯と呼ばれる七飯方面から見て右側に尖った部分が標高1,131 mのこの山の最高点である[1]。八雲側から見て右側のやや盛り上がった峰部分の砂原岳(さわらだけ)には、1896年(明治29年)8月に陸地測量部の館潔彦らが設置した一等三角点(点名「砂原岳」、標高1,112.17 m)があるが[6]、降灰等により埋没している[7]。アイヌ語の「サラキ」(鬼芽)が砂原岳の山名の由来である[6]。火口はその2つの峰を挟んだ山の中央部にある。山麓の西側を大沼回り、東側を砂原回りのJR北海道函館本線が通り、山頂は駒ヶ岳駅の東北東6.2 kmに位置する。東山麓には陸上自衛隊の駒ヶ岳演習場がある。 山頂部には直径約2 kmの火口原があり[8]、西の剣ヶ峯、北の砂原岳、南の馬の背・隅田盛で囲まれるほか、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形(初期段階)を見せる。山頂直下からガリ侵食が始まり、一部で深いV字谷を形成し始める途上にある。山麓には、堰止湖である大沼、小沼などの湖沼や湿地など豊かな自然環境が形成され、一帯は1958年(昭和33年)7月1日に大沼国定公園に指定された[9]。山麓一帯は箱館(函館)港が開港した明治時代からリゾート地として親しまれており、小松宮と有栖川宮の皇族をはじめ、ドイツやイタリアの皇族も訪問している。1881年(明治14年)には、皇太子時代の大正天皇が大沼を訪問することにより、いっそうこの地が有名になった[10]。1915年(大正4年)には北海道駒ヶ岳を望む大沼の風景が新日本三景に選定された。 七飯町の大沼方面からみると、横に長く、なだらかで優美な印象を与えるが、森町方面や鹿部方面からみると一変し、荒々しい山肌と傾斜が目に付く激しい姿を見せる。大沼方面から見た山容が馬がいなないている姿に似ていることが、山名の由来であると言われている[11][注釈 1]。 地質は安山岩質であるが、軽石などの火山砕屑物を大量に噴出する特徴があり、山体の周辺に厚く堆積している。噴火活動自体は、3-4万年前から断続的に行われてきたと考えられている。 正確な活動開始年代は明かになっておらず、約3万年前[12]とする説と、約10万年前[13]とする説などがある。山体が形成された4万年前以降3回の噴火活動期があり、人間の活動に影響を与える噴火は、約6,000年前に降下火砕物と火砕流を伴う活動をし、約5,500年前に降下火砕物の活動の痕跡があったが、以降は江戸時代まで、約5,000年間は活動を休止していた。
概要
火山スペースシャトルミッションSTS-99での撮影(2000年2月)北海道駒ヶ岳の火山体地形図函館方向から見た冬の駒ケ岳
地質
火山史
1640年(寛永17年) - 1640年の噴火は、7月31日(旧暦6月13日)に発生した二つの山体崩壊と、それに続く3日間のプリニー式噴火に代表される大噴火である。まずマグマが深部より上昇・貫入。これにより山体が膨張・変形し、南斜面で山体崩壊が発生。この崩壊による岩屑なだれによって折戸川をせき止め大沼・小沼が形成された。崩壊した体積は0.3 km3とされる。続いて東斜面で山体崩壊が発生。岩屑なだれにより出来澗崎(できまざき〈鹿部町〉)が形成され、土砂はそのまま内浦湾へ流れ込み大津波が発生、700名あまりが犠牲となった[14][15]。崩壊した体積は1.42 - 1.70 km3[16]・津波の規模はMt7.9-8.2[17]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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