渡党(わたりとう)は、『諏訪大明神絵詞』(1356年)に記された、14世紀初頭の蝦夷島(えぞがしま)に居住していた3つの集団のひとつである。道南(北海道渡島半島を中心とする地域)の住民であったと考えられ[1]、近世アイヌを彷彿とさせる文化的特徴をもっていた[2]。他の2集団は北海道太平洋側のアイヌと推定される日ノモト(ひのもと)、同じく日本海側のアイヌを指すと思われる唐子(からこ)であるが、渡党はかれらとは異なり「和国の人」とのコミュニケーションが可能で、津軽海峡を往来して交易を行っていたという。渡党は境界的な性格をもつ交易民であり[3]、和人系アイヌ・アイヌ系和人の両属的集団であった[4]。そのなかには逃亡や流刑のために本州から北海道に渡った人々の子孫も含まれていたとも言われる[1]。 延文元年(1356年)に書かれた『諏訪大明神絵詞』によると、「蝦夷ガ千島」には日ノモト、唐子、渡党の三種が住んでおり、このうち渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似て言葉が通じ、本州の津軽や外が浜に往来し交易に従事したとされる[注釈 1]。 当時の「蝦夷(えぞ)」については、中央政権から見て辺境に住む辺民を指したものであるとする説[5]も有力ではあるが、アイヌを指すとする意見が主流である。そのアイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化と融合し、和人の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は13世紀ころと見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に本州との交渉の増大があると考えられている。擦文時代の渡島半島には、擦文文化と本州土師器文化の間に生じたクレオール的文化である青苗文化が成立していたことから、渡党は、本州の土師器文化を受け入れた元擦文文化人であったと考えられ、本州とアイヌとの交渉に携わったと考えられている。一般的には蝦夷地南部に居住していたとされているが、その活動範囲は北は胆振勇払の鵡川から後志の余市(『新羅之記録』)、南は下北半島、津軽半島一帯に及んでいたと考えられている[6]。道南十二館 彼らは、鎌倉幕府北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられた豪族である安藤氏(安東氏)の支配下に置かれ、上述したとおり蝦夷と見なされていた。安藤氏は、配下の武将を道南十二館に配置していたと伝えられている[7]。 『諏訪大明神絵詞』成立後の14世紀後半から和人の北海道への進出が本格化し、15世紀には渡島半島南端に和人の館が築かれたが[8]、『福山秘府』などの後世の松前藩の文献では、道南十二館の館主は渡党であると記されている[9]。また、『寛永諸家系図伝』では、松前氏の祖とされる武田信広は和多利党(わたりとう)のリーダー格であるかのように描写されており、アイヌとの交易活動を行っていた信広の海商的実態がうかがわれる[10]。
概要
北方諸民族は山丹貿易などの交易に携わっていたが、特にアイヌは和人や大陸との交易なしでは生活必需品が確保できない文化を形成しており(鉄製品と漆器、絹織物など)、彼らと和人の仲介役として渡党が活躍した。
志苔館跡(函館市)からは、15世紀前半ごろ埋蔵と推定されている甕の中から計40万枚にのぼる主に中国の古銭が発掘されており、これは日本国内で1カ所から発掘された古銭としては最大級の量である。
松前藩では、蝦夷地に藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場
(あきないば)を割り当て交易船を送る権利を認めるという形でなされており、武士と商人の兼業のような形態であった[注釈 2]。渡党の来歴についてはいくつかの説がある。
元北海道開拓記念館学芸員の海保嶺夫は、渡党とは「本州から渡ってきた党類」の謂いで[11]、当時の西国にみられたような「悪党」的性格をもつ人々が蝦夷化したものと解釈した[12]。