渕正信
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渕 正信
2019.11.21後楽園
プロフィール
リングネーム渕 正信
マサ・フチ
AKA-ONI
本名渕 正信
ニックネーム王道の伝道師
赤鬼
地獄の仕事人
ロンリーワン
ジュニアの魔豹
独身男
全日本最後の良心
色白ダンディズム
身長183cm
体重105kg
誕生日 (1954-01-14) 1954年1月14日(68歳)
出身地福岡県北九州市戸畑区
所属全日本プロレス
スポーツ歴レスリング
陸上
トレーナージャイアント馬場
ザ・デストロイヤー
ビル・ロビンソン
カール・ゴッチ
ルー・テーズ
デビュー1974年4月22日
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渕 正信(ふち まさのぶ、1954年1月14日 - )は、日本男性プロレスラー福岡県北九州市戸畑区出身。血液型B型。全日本プロレス所属。愛称は「フッチー」。
来歴

八幡大学付属高校時代は、レスリング陸上競技で鍛え上げる。八幡大学へ進学も中退し、日本プロレスへの入門を目指し上京するが、列車の中で読んだ九州スポーツで日プロの崩壊を知り、渕も一旦九州に帰らざるをえなくなった。

1974年4月10日に全日本プロレスに入門。この年、ライバル団体である新日本プロレスもすでに旗揚げされていたが、日プロ時代のファンでもある渕は「馬場さん猪木さんでは、スターとしては格がまったく違うじゃないですか」と後に語るほど馬場に憧れており、全日本プロレスを選んだ。入門わずか12日で徳島県三好市(旧:池田町四国電力横広場での大仁田厚戦でデビューした。当時は、大仁田や園田一治と共に渕も若手三羽烏の一人として頭角を表していった。

1980年に海外武者修行に出発、プエルトリコにて大仁田と合流し1981年3月よりマサ・フチ(Masa Fuchi)のリングネームテネシー州メンフィスCWAに参戦[1]トージョー・ヤマモトマネージャーに迎え、大仁田とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争い、同タイトルを通算3回獲得した[2]。出身地は、長崎出身の大仁田に合わせ広島出身とされていた。

渕はアメリカでの武者修行中、全日本プロレスのレスラーには珍しくカール・ゴッチより指導を受けている。1983年6月には、チャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国し、日本で8月31日に再度挑戦するも、渕の王座奪取はならなかった。その後はジュニアに転向したマイティ井上や、移籍してきたグラン浜田、マジック・ドラゴン(ハル薗田)、2代目タイガーマスクらのサポートに回ったり、怪我から復帰してきた大仁田と前座で闘っていたが、2代目タイガーマスクのヘビー級転向を受けて再度ジュニアの表舞台に立ち、1987年小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取する。以降5度同王座を獲得し、渕もジュニアヘビー級のトップレスラーとしての地位を確立する。

三沢光晴が率いる超世代軍ジャンボ鶴田率いる鶴田軍との抗争では、渕は鶴田軍についてメインイベントなどで戦う他、永源遙大熊元司らと共に悪役商会の一員として馬場、ラッシャー木村らのファミリー軍団と抗争を繰り広げるなど、名バイプレイヤーとして分裂前の全日本を支えた。木村の試合後のマイクパフォーマンスでは、渕が長年独身であることをネタにされていた。

2000年に起こった選手の大量離脱騒動を受けて当初現役引退を決意したが、馬場元子の「全日本プロレスとして馬場さん三回忌をやりたい」という発言を受け、現役続行を決断[3]。中堅レスラーとして活躍していた渕は、トップを張らざるを得なくなった。

同年8月の新日本プロレスのG1 CLIMAX大会において、渕はスーツ姿で新日本プロレスのリングに上がり、「30年の長い間、全日本プロレスと新日本プロレスとの間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました。全日本プロレスは選手2人しかいませんが、看板の大きさとプライドは新日本に負けてはいません!」と歴史に残るマイクアピールを行い、新日本プロレス現場責任者(当時)の長州力と固い握手を交わした。この時、蝶野正洋が長州と渕の前に現れてリングインし、「オイ!ここはテメェの上がるリングじゃねぇんだ、オラ! とっとと降りろ!」と激怒して被っていた帽子を投げつけたが、渕は余裕綽々の態度を崩さず蝶野の帰り際には「蝶野、忘れ物だ!」と蝶野の帽子を放り返し、格負けしない振る舞いを見せ付けた。最後に渕は、「我々は逃げも隠れもしない! 蝶野、来るなら来い!」、「新日本プロレスのファンの皆様、どうも大変お騒がせしました!」と締めくくったことから、会場からは異例の大「フッチー」コールが沸き起こった。後に全日本のリングで渕は蝶野と対戦して敗れはしたものの、渕も全日本の代表レスラーとして価値あるプレーを見せつけた。

新日本プロレスから武藤敬司小島聡らが移籍し、徐々に所属選手も増え団体として活気を徐々に取り戻してくると、渕も再び中堅ベテランレスラーとしてガッチリ脇を固め、リング外ではスポークスマンとして活動。2004年5月22日には、天龍源一郎とのコンビで第76代アジアタッグ王者を獲得した。

渕は後述の世界ジュニア最多防衛記録元保持者であったが、故にTAKAみちのくが14度目の防衛の対戦相手として決めていたのが渕であったり、以前の保持者の近藤修司が執拗に渕との世界ジュニア戦を要求していた。しかし渕は体力的な衰えは隠せず、菊タロー荒谷望誉と共にお笑いスタイルの第一試合で興行を暖める役に徹していた。なお、渕自身は菊タローにはシングルで一度も負けていなかった。

渕は、和田京平レフェリーと共に団体生え抜きの人物として全日本プロレスの看板を守り通す重鎮でもあったが、2009年より渕が全日本プロレスの所属レスラーとしての契約をしていない事と同社取締役を同年に辞任していた事が判明したため、以降も渕はフリーランスの立場で全日本プロレスに参戦していた[4]。契約的には問題が無いため、他団体への出場も可能で実際にオファーも来ていたが[4]、他団体の興行には出場せず、全日本プロレスの興行にのみ出場している[5]。渕は「全日本プロレスが消滅したら、引退する」と公言もしているほど、全日本愛は誰にも負けていなかった。

2013年7月14日、渕の全日本プロレス取締役相談役の就任を発表した[6]

2014年、還暦記念特別試合を1月に、3月には40周年特別記念試合を行った。12月14日、後楽園ホールで行われた全日本プロレス「和田京平レフェリー40周年&還暦記念大会?和田京平プロデュース?」では青木篤志の持つ世界ジュニアヘビー級選手権に5年ぶりに挑戦し20分以上闘ったが、試合は青木の肩固めで渕がギブアップ負けを喫した[7]

2016年11月27日、渕は両国国技館大会にて同期の大仁田とタッグを組み、奇しくも薗田の命日にアジアタッグ選手権試合に挑戦。王者組の変態自衛隊(佐藤光留&青木篤志組)を破り、第100代王者に輝いた[8]


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