渋澤龍彦
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澁澤 龍彥
ペンネーム澁川龍兒、蘭京太郎、Tasso S.など
誕生澁澤 龍雄
(しぶさわ たつお)
1928年5月8日
日本 東京府東京市芝区車町
死没 (1987-08-05) 1987年8月5日(59歳没)
日本 東京都港区西新橋東京慈恵会医科大学附属病院[1]
墓地浄智寺神奈川県鎌倉市
職業小説家フランス文学者評論家
最終学歴東京大学文学部フランス文学科
活動期間1954年 - 1987年
ジャンル評論随筆翻訳小説
配偶者矢川澄子1959年 - 1968年
澁澤龍子(1969年 - )
子供なし
親族澁澤幸子(長妹)
渋沢道子(次妹)
矢野眞(義弟、道子の夫)
坂斉万知子[2](末妹)
横山虎雄(伯父)
浦野敬(叔父)
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澁澤 龍彥[注 1](しぶさわ たつひこ、1928年昭和3年〉5月8日 - 1987年〈昭和62年〉8月5日)は、日本小説家フランス文学者評論家

本名は龍雄(たつお)。別名のペンネームに澁川龍兒、蘭京太郎、Tasso S.などがある。晩年のに呑珠庵、無聲道人がある[注 2]
経歴
誕生

東京市芝区車町(現東京都港区高輪)に澁澤武・節子の子として生まれ、埼玉県川越市、東京市滝野川区中里(現在の東京都北区中里)に育つ。父の武(1895年 - 1954年)は銀行員。母の節子(1906年 - 没年不詳)は実業家で政治家磯部保次長女。渋沢栄一は龍彥の高祖父・三代目宗助(徳厚)の甥にあたる[注 3]。龍彥の幼少時、渋沢栄一はまだ存命で同じ滝野川に住んでおり、赤子の龍彥は栄一翁に抱かれて小便を洩らしたことがあると伝えられている。なお澁澤家は、指揮者尾高尚忠や競馬評論家大川慶次郎とも親類に当たる。
学生時代

旧制の東京府立第五中学校(現東京都立小石川中等教育学校)から、1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語クラス)に進む。理系に進んだのは、当時の軍国主義的風潮の中で飛行機の設計者に憧れたためだが、徴兵逃れの意図もあった。中学から高校時代には勤労学徒として動員され、板橋凸版印刷と鋳物工場、八丁堀の製本屋、赤羽東京陸軍兵器補給廠大宮の工機部(蒸気機関車の修理工場)で働く。大宮の工機部では艦載機の機銃掃射を体験する。ドイツ語が不得手だったためもあり、敗戦に伴って文甲(文系英語クラス)に転じる。旧制浦和高校の文丙(文系フランス語クラス)は戦時中に廃止されていたが、澁澤の一級下から復活したため、一級下の講義に潜り込み、平岡昇からフランス語の手ほどきを受けた。このころの友人に出口裕弘野沢協がいる。またアテネ・フランセに通ってフランス語を習得。みるみる上級クラスに上がっていったという。このころ、神田の古書店街でダダイスムシュルレアリスム関係の仏語の原書を渉猟し、アンドレ・ブルトンジャン・コクトーに熱中した。
浪人時代

本来、旧制高校卒業生は無試験で帝国大学に進める立場だったが、新しい学制が施行されたためにその特権的立場を喪失し、このため澁澤は東大仏文受験に失敗して、いわゆる白線浪人となった。浪人中のアルバイトで「モダン日本」誌(新太陽社)の編集に携わり、吉行淳之介の知遇を得た。久生十蘭の原稿を取りに行った事もある。このころ、小説の習作を吉行に読んでもらったことがあるが、それは吉行によるとサディズムの傾向があらわれた作品だったとのことである。
東京大学

1950年、2年の浪人生活を経て東京大学文学部に入学。この時のことを、1974年2月の「週刊朝日」の取材には「入学試験なんてインチキなものだと信用していなかったが、やはり三度目に入ったときはうれしかった」と答えている。若干の社会人経験を積んだためもあり、澁澤当人は自筆年譜の中で「周囲の学生が秀才馬鹿に見え、研究室の雰囲気にも馴染めなかった」と語ったが、当時の友人の証言によると、澁澤はこのころ研究室には頻繁に出入りしていたともいう。1953年仏文科を卒業。卒論は『サドの現代性』。サドをテーマにした論文は自分が最初で最後かもしれないと語っている。澁澤の執筆当時はサドは文学者としての評価は芳しくないばかりか俗悪的なポルノ作家との認識が少なくなく、学者もサド研究に好意的ではなかった。そんな状況での澁澤の論考は、当然のようにアカデミズムから疎外される。澁澤は卒論を提出した後に、大学から取り戻したという。このころ、新聞社や出版社の就職試験に失敗している。
文学の道へ

その後、東京大学修士課程に進んだが肺結核を病み就職への道が絶たれる。1954年、白水社から最初の訳書『大跨びらき』(ジャン・コクトー)を上梓、初めて筆名「澁澤龍彥」を用いた。訳業自体は、すでに大学入学前、浪人時代に着手していたものである。

この頃、父が急死したため経済的に逼迫し、岩波書店で社外校正のアルバイトを始めると共に、のちの妻矢川澄子と知り合った。また1955年には友人の出口裕弘や野沢協、小笠原豊樹たちと同人誌「ジャンル」を結成、『撲滅の賦』『エピクロスの肋骨』などの小説を書いた。公式には、この『撲滅の賦』が小説家としての澁澤の処女作だったとされている。このころ三浦市の市長選に絡んで個人的に日本共産党候補を応援し、対立候補を批判する詩を書いてビラ撒きを手伝ったが、やがて一切の政治的発言を自らに禁ずるようになった。
サド裁判

1961年わいせつ文書販売および同所持の容疑で、現代思潮社社長石井恭二と共に在宅起訴され、以後9年間に亘りいわゆる「悪徳の栄え事件」の被告人となった。第1回公判は8月10日。埴谷雄高遠藤周作白井健三郎が特別弁護人、大岡昇平吉本隆明大江健三郎奥野健男栗田勇森本和夫などが弁護側証人となった。


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