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やノートページでの議論にご協力ください。渋沢財閥(しぶさわざいばつ)は、渋沢同族株式会社を中心とする企業群[1]。渋沢財閥と呼び慣わされるが、『國史大辭典』で経済史学者の山口和雄が「渋沢財閥は財閥とよぶのがどうかと思われる」としているように[1]、この企業群を「財閥」とすべきかは意見が分かれている。
渋沢財閥は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)が占領政策として財閥解体を実施するにあたり、1946年(昭和21年)12月に持株会社指定委員会から指定を受けた十五大財閥の一つ。渋沢栄一により設立された渋沢同族株式会社を持株会社とする財閥と位置付けられた。しかしながら、GHQより再調査の結果、その規模と株式所有企業への支配力の点からも渋沢同族株式会社は財閥の持株会社には相当せず、指定解除を願い出る様に通知してきた[2]。渋沢家当主で渋沢同族株式会社社長(第一銀行元副頭取、澁澤倉庫元取締役)の渋沢敬三は、戦中戦後にかけて日本銀行総裁、大蔵大臣として日本の金融財政等の経済政策運営に係わってきた当事者としての立場から、財閥指定解除の願いについて、「それは世間が承知せんだろう」と言ってこれを実施せず、財閥には当たらない持株会社ながら財閥指定を受けることとなった[2]。 渋沢栄一は、1873年(明治6年)に第一銀行(後に第一勧業銀行を経てみずほ銀行に)を創設。以後500にのぼる企業の創設、育成に携わった。栄一は日本の近代化のために社会に必要な産業を担う新たな企業を起こして、軌道に乗せることに情熱を傾けた。自ら設立した企業であっても株式を大量に保有する事によって、いわゆる経営支配を行う事には関心は無かった。家族や縁者が長く経営の責任ある立場に関与し続けたのは、第一銀行や澁澤倉庫などの限られた企業しかなかった。 このように渋沢財閥が微弱な小財閥になったのは、渋沢栄一が経済と道徳の合一を掲げて実践したからである。渋沢栄一は井上馨など政治家との繋がりがあったので、望めば利権を得ることが出来たが、そうしなかった。また、浅野総一郎・大川平三郎・古河市兵衛・山下亀三郎・福沢桃介・大倉喜七郎・植村澄三郎・門野重九郎などの財界の大物たちは渋沢に恩義があり、渋沢が望めば喜んで部下として活躍したであろうが、渋沢は見返りを求めなかった。例えば、古川は恩返しのために、足尾銅山の共同経営を渋沢に申し込んだが、断られた。渋沢は関係した多数の会社を、望めば自分のものに出来たのであるが、そうしなかった。しかも、渋沢が生きたのは日本経済の発展成長期であり、自身の経営能力や自身の名声や、第一銀行の資本力を用いて、容易に大財閥を築くことが出来たのに、自分だけの利益を追求しないで社会全体の利益を追い求めたのである。[3] 一方で栄一の多方面での活躍から、その資産も結果的に膨らむことになり、栄一は死後にそれを巡って一族内で争いが起こることも懸念し、娘婿で東京帝国大学法学部長も務めた民法、家族法の権威である穂積陳重をして、1891年(明治24年)に渋沢家家法を定めさせ、澁澤同族会を組織して一族の財産管理等を行わせた。
持株会社の成立経緯