渋沢栄一
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この項目では、実業家について説明しています。小惑星については「渋沢栄一 (小惑星)」をご覧ください。

 凡例渋沢栄一
渋沢資料館所蔵
時代江戸時代末期-昭和時代初期
生誕天保11年2月13日(1840年3月16日)
死没昭和6年11月11日(1931年11月11日)
改名市三郎→栄二郎、栄次郎もしくは栄治郎→美雄→栄一郎→仁栄→篤太夫→篤太郎
別名栄一(ひでかず)
戒名泰徳院殿仁智義譲青淵大居士
墓所谷中霊園
官位正七位従六位正六位従五位正五位従四位男爵正四位従三位正三位子爵従二位正二位
幕府江戸幕府 幕臣旗本、御勘定格陸軍付調役、外国奉行支配調役、開成所奉行支配調役→明治政府 民部省租税正、改正掛掛長、大蔵省、大蔵権大丞、大蔵大丞、三等出仕、紙幣寮
主君徳川慶喜家達明治天皇大正天皇昭和天皇
武蔵岡部藩静岡藩
氏族渋沢氏
父母父・渋沢市郎右衛門
母・渋沢ゑい
兄弟なか、貞子
妻千代(1858年-1882年、死別)→兼子(1883年-1934年)
渋沢篤二渋沢武之助渋沢正雄渋沢秀雄穂積歌子阪谷琴子、明石愛子など
下記参照
特記
事項正確な子供の数は不明である
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渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日天保11年2月13日〉- 1931年昭和6年〉11月11日)は、日本実業家[1]位階勲等爵位正二位勲一等子爵雅号は青淵(せいえん)。

江戸時代末期に農民名主身分)から武士一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜将軍就任にともない幕臣となり[2]明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔井上馨の下で大蔵少輔吉田清成らと共に造幣、戸籍出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。

井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社[3] にもおよび、「日本資本主義の父」[4] と称され、実業家の肥田理吉(肥田琢司の弟)らと日本経済の在り方を論じた[5]

同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会聖路加国際病院等の医療事業、東京大学文学部新聞研究室(現:東京大学大学院情報学環教育部)、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている[6]
経歴
郷里にて 1840年 -渋沢栄一の生家である旧渋沢邸「中の家」。

武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に渋沢市郎右衛門(1809年 - 1872年)[7] とゑい(1811年 - 1874年)の姉と妹を持つ長男として天保11年(1840年)2月13日に誕生した。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も父と共に信州上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わった。14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったともいわれる。

一方で、5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、『論語』を始め四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学んだ。安政3年(1856年)16歳の時、領主代官のいる岡部藩岡部陣屋で御用金の上納を命じられ、大いに反発したと伝わる。安政5年(1858年)18歳の時、惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代(1841?82)と結婚した。
尊攘派志士から、一橋慶喜の家臣へ 1861年 -

文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863年)に共に従兄弟である尾高惇忠渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、同じく従兄(惇忠の弟)の尾高長七郎の懸命な説得により中止する。


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