渋沢敬三
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日本政治家渋沢 敬三
(澁澤 敬三)しぶさわ けいぞう

生年月日1896年8月25日
出生地 大日本帝国東京府東京市深川区(現・東京都江東区
没年月日 (1963-10-25) 1963年10月25日(67歳没)
死没地 日本東京都港区虎の門病院
出身校東京帝国大学経済学部(現・東京大学経済学部
前職日本銀行総裁
現職経済団体連合会相談役
文化放送会長
KDD社長・会長
日本モンキーセンター会長
所属政党研究会
称号勲一等瑞宝章
名誉博士東洋大学1963年
配偶者渋沢登喜子
子女長男・渋沢雅英
次男・渋沢紀美
長女・佐々木紀子
次女・服部黎子
親族祖父・渋沢栄一(貴族院議員)
祖父・橋本実梁(公卿)
伯父・穂積陳重(枢密院議長)
伯父・阪谷芳郎(大蔵大臣)
叔父・大川平三郎(貴族院議員)
義父・木内重四郎(京都府知事)
従兄・穂積重遠(貴族院議員)
従兄・穂積真六郎(参議院議員)
従兄・阪谷希一(貴族院議員)
第49代 大蔵大臣
内閣幣原内閣
在任期間1945年10月9日 - 1946年5月22日
貴族院議員
在任期間1945年3月17日 - 1946年6月10日
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渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年明治29年〉8月25日 - 1963年昭和38年〉10月25日)は、日本実業家財界人民俗学者政治家、第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣幣原内閣)、祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。
生涯
財界人として

1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁

東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1913年に父篤二が廃嫡されたこともあり、中学卒業時(1915年)には祖父の栄一により澁澤同族株式会社が設立され、同社の初代社長に就任。当初は動物学者を志し、仙台第二高等学校農科への進学を志望していたが、敬三に期待する祖父・栄一が羽織袴正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、第二高等学校の英法科に進学する。

1918年(大正7年)、第二高等学校卒業後、東京帝国大学経済学部入学。

1921年(大正10年)山崎覚次郎博士のゼミナールにて「ビュッヘル氏の所謂工業経営階段と本邦に於ける其の適用に就て」を提出して卒業。

1921年、大学卒業後、横浜正金銀行に入行。1922年、ロンドン支店に着任(支店長は大久保利賢、のちに矢野勘治)。その間に木内重四郎、磯路夫妻の次女登喜子と結婚(媒酌人は和田豊治)。登喜子の父の重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、登喜子の母磯路は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の次女である。その間の1925年(大正14年)には長男・渋沢雅英(渋沢栄一記念財団初代理事長)が誕生する。そして1926年(大正15年)に5年間に渡り勤務した横浜正金銀行を退職した。同年には祖父・栄一ゆかりの第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任。第一銀行副頭取などを経て1942年(昭和17年)に日本銀行副総裁[1]1944年(昭和19年)には第16代総裁に就いた。

第二次世界大戦直後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。およそ半年の在任中に預金封鎖新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収等により、インフレーション対策と戦時中に膨らんだ国債等の国家債務の整理に当たった。またこの頃より高松宮家財政顧問も務めるようになった。一方で、渋沢家はGHQ財閥解体の対象となり、1946年(昭和21年)には創立以来敬三が社長を務めた澁澤同族株式会社も持株会社整理の対象となり、自らも公職追放の指定を受ける[2]。 また、自ら蔵相として導入した臨時の財産税のために、三田の自邸を物納することになった。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦津島寿一次田大三郎らとともに証人喚問された[3]

1951年(昭和26年)追放解除[2]後は、経済団体連合会相談役や、電電公社からの国際電話事業分離で特殊法人として設立された国際電信電話(KDD。現KDDI)の初代社長、財界が共同で設立した文化放送の初代会長などを務めた。
民俗学者として

並行して、若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、漁業史の分野で功績を残した。祖父・栄一の没後の1932年(昭和7年)には、糖尿病の療養のため訪れた静岡県内浦(現在の沼津市)で大川四郎左衛門家文書を発見。 一つの村の400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活が記録されていたこの文書を持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチックの同人らとともに纏めた『豆州内浦漁民史料』[4]を刊行し、1940年(昭和15年)日本農学賞を受賞した[5]。他に『日本釣魚技術史小考』、『日本魚名集覧』、『塩俗問答集』などを著した。

港区三田の自邸[6]の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」[7]を開設(第二次大戦中に日本常民文化研究所と改称[注 2])。


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