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凡例渋川義行
時代南北朝時代
生誕正平4年(1348年)
死没天授元年8月11日(1375年9月7日)
戒名道祐
官位武蔵守、右兵衛佐
幕府室町幕府 備中・備後守護
主君足利義詮→義満
氏族渋川氏
父母父:渋川直頼、母:高師直娘
兄弟義行
養兄弟:尊頼(義宗)(吉見氏からの養子)
子満頼、満行、義長、吉良満貞室ら
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渋川 義行(しぶかわ よしゆき)は、南北朝時代の武将・九州探題。渋川氏6代当主。 正平4年(1348年)、5代当主・渋川直頼の子として誕生。正平20年(1365年)、父から相続した備後国御調郡の所領に加え、幕府より備後守護、さらには備中国守護に任命された。さらに九州鎮圧の進まない斯波氏経の辞任を受け、18歳にして九州探題に就任する。 義行の探題就任には伯母の渋川幸子の強い意向が働いたともされる。幕府の期待を受けて九州へ下向しようとしたが征西大将軍懐良親王を擁する菊池武光ら南朝方の征西府の頑強な抵抗に遭い、九州に入る事無く山陽地方に留まらざるを得なかった。 その後も征西府の勢威に抗えず、建徳元年(1370年)、ついに九州に一歩も入ることができないまま探題職を更迭された。やがて備後を経て都へ帰還するとまもなく剃髪し、天授元年(1375年)8月11日、死去。享年28。 相次ぐ探題の九州攻略失敗に業を煮やした幕府は、のちに名将として評価された今川了俊を送り込むことになる。
略歴