渋川景佑
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渋川 景佑(しぶかわ かげすけ、天明7年10月15日1787年11月24日) - 安政3年6月20日1856年7月21日)は、江戸時代後期の天文学者で、江戸幕府天文方。幼名は善助。通称助左衛門。号は滄州・三角堂。高橋至時の次男で、天文方の渋川正陽の養子となった。同じく天文方の高橋景保の弟。子に渋川敬直(六蔵)、佑賢がいる。日本最後の太陽太陰暦である天保暦の作成者として知られている。
経歴

大坂定番井上筑後守同心であった高橋至時の次男として大坂に生まれる。寛政7年(1795年)、父が天文方に召しだされて江戸に出た後も兄の景保と共に大坂にいたが、2年後に兄と共に江戸に出た。父の元で天文暦学を学び、父の死の翌年である文化2年(1805年)に伊能忠敬に従って東海地方紀伊半島中国地方測量に従事した。

文化5年(1808年)8月、天文方であった渋川正陽の養子に迎えられ、翌年養父の隠居によって23歳で天文方に任じられた。渋川家は初代の天文方であった渋川春海以来の家柄であったが、春海の嫡男昔尹以来、当主の早世と養子縁組が相次いだために春海以来の学術は途絶え、名目のみの天文方の地位を代々引き継ぐだけの家となっていた。それを挽回するために高橋家からの養子を迎えたのであった。

文政元年(1818年)より兄と共に父・至時がやり残していたジェローム・ラランドの『ラランデ暦書』の翻訳事業にあたっていた。ところが、シーボルト事件によって兄が捕らえられて獄死してしまう。景佑は縁座を免れたが、その後の彼の活動に大きな影響を与えることになった。その後も足立信頭の協力を得て『ラランデ暦書』の翻訳を続け、天保7年(1836年)に『新巧暦書』40冊・『新修五星法』10冊を完成させて幕府に提出した。

天保9年(1838年)に幕府より天文観測記録を作成するように命じられ、合わせて父が現行の寛政暦を作成したものの、同暦の規則を記した暦書を完成させる前に没したために暦の理論が不明になっているとしてその作成を命じられた。天保10年(1839年)には鉄炮箪笥奉行格に任じられる。天保12年(1841年)に『新巧暦書』を元にした改暦を命じられる。天保13年(1842年)、九段坂上に新たな天文台の用地を与えられ、京都での改暦のための観測旅行後、九段に観測所を設置して天体観測にあたり、後に『霊験候簿』としてまとめられた。『霊験候簿』は200巻に及び、日月五星の位置を観測した記録が記載されている。現在は内閣府に収蔵されている[1]

同年、景佑が中心となって作成した新しい暦である天保暦が完成、2年後の天保15年(弘化元年・1844年)に改暦が行われると共に、幕府からは寛政暦の暦書と平行して天保暦の暦書の作成が命じられた。また同年、寛政暦の暦書である『寛政暦書』35巻が完成(後に続編5巻を追加)、嘉永2年(1852年)には山路諧孝と共に天保暦の暦書である『新法暦書』を完成させた。


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