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澁川一流しぶかわいちりゅう
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発生国 日本
発生年江戸時代
創始者首藤藏之進満時
源流渋川流、難波一甫流、浅山流
主要技術柔術、棒術、十手術
伝承地広島、山梨、愛知など
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澁川一流(しぶかわいちりゅう)とは、 日本の伝統武術である柔術を中心とし、武器術として淺山一流の棒術なども併伝する流派である。 実技と伝書は伝えられているが、流祖首藤蔵之進満時(1809年(文化6年)?1897年(明治 30年))の没後、子孫の家が火災に遭い江戸時代の文献が残っていないため、流祖や流派の成立過程についての詳細は分かっていない[1]。 伝承によれば、首藤蔵之進満時は宮崎儀右衛門満義に連れられ、広島藩安芸郡坂村に移り住み、難波一甫流や浅山一伝流を習った後、「柔術澁川一流」を創始した[1]。1839年(天保10年)頃、松山藩に仕えたとされるが、明治維新以後は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも 武術を教授した[1]。澁川一流はいわゆる宗家制をとっておらず、自分の親族には完全相伝制をしたため、独立して師範となった方が複数人いたとされる[1]。 流名については、主なものに以下の二説がある。 一つは、西日本においては流儀名に○○一流と名乗る慣習があり(兵法二天一流、扱心一流など)、それに宮崎が広島藩で習得した澁川流の名義を冠して「澁川一流」と命名されたとするもの[要出典]、もう一つは、渋川流、難波一甫流、浅山一伝流を合すると、渋川一甫一伝流となり、このことから渋川一流としたとするものである[2]。 しかしながら、前記2説のうち、西日本の慣習によるとの説は、あくまで推測にすぎず、もう一方の渋川流など三流を合したとの説も同様で、現時点で流名の由来は不詳である。 首藤以降、現存している主な伝系を以下に記す。 戦後、宮田友吉の実弟である宮田玉吉の流れを汲む者が、地元で渋川一流を教授していたことから、現在もその教えを受けた者が現存する[要出典]。 坂町に所在する坂八幡宮に1891年(明治24年)に首藤蔵之進の門人宮田玉吉が奉納した額と、1895年(明治28年)に河野(川野)幸八が奉納した額が残っている[1]。 このうち、前述の宮田玉吉が掲げた奉納額では、宮田家に伝わる柔術の伝来の過程を次のように記載している。[6] 難波流 宮崎儀右衛門満義 承伝 首藤蔵之進満時 渋川流 承伝 宮田多四郎国時 承伝 宮田玉吉時正 承伝 宮田友吉国治 首藤蔵之進満時 渋川一流 承伝 宮田玉吉時正 これによれば、難波流と渋川流を学んだ宮崎儀右衛門が、宮田家の宮田多四郎とその弟である首藤蔵之進に武術を伝え、宮田多四郎の子息である宮田友吉と宮田玉吉兄弟に武術が伝わったと記した上で、首藤蔵之進の門弟である宮田玉吉は渋川一流を教授しているのだと記載している[要出典]。 また、同じく、明治期に坂八幡宮に奉納された川野幸八正国の奉納額では、渋川一流元祖首藤蔵之進と記載した上で、川野の門弟の氏名を記載している[要出典]。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}系図上では、川野幸八、宮田友吉及び宮田玉吉は首藤蔵之進の弟子であるが、このうち、川野幸八や宮田友吉は松山にいた首藤からではなく、実際は、村に在住していた宮田多四郎の門弟であったと考えられる(宮田玉吉は、父の宮田多四郎が早く亡くなったため、長く教えを受けることができなかったことから叔父の首藤から教えを受けたと思われる。
概略
流名について
伝系
首藤藏之進満時?
宮田友吉國嗣 - 車地國松政嗣 - 畝重實嗣昭 - 森本邦生嗣時[1]
宮田友吉國嗣 - 車地國松政嗣 - 畝重實嗣昭 - 西清一政純[3]
宮田友吉國嗣 - 小末繁太郎國時 - 谷田重一嗣時 - 谷田朝雄時信 - 小佐野淳信常[4]
宮田友吉國嗣 - 車地國松政嗣 - 金子定行秀國 -車地善光成嗣[5]
奉納額
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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