渉外法律事務所(しょうがいほうりつじむしょ)とは、日本の法律事務所のうち、その主たる業務分野として渉外性(国際性)のあるビジネス法務を扱っているものを指す。「渉外事務所(しょうがいじむしょ)」、もしくは単に「渉外(しょうがい)」とも呼ばれる。
かつて日本の大手弁護士事務所の多くは、渉外案件をそれらの業務の中心に据えており、そのためにしばしば「大手渉外事務所」と呼ばれていた。しかしながら外国法共同事業に基づいた欧米法律事務所が日本で展開するようになるに至り、四大法律事務所と呼ばれるような大手法律事務所では現在、いずれも日本国内の企業法務案件へとその事業分野をシフトしている[1]。 「渉外」とは、対外的な事項に関することを意味し、法曹においては、「外国法ないし外国人が関わる」という程度の意味となる。すなわち、「渉外」は、「国際」とほぼ同義であり、「渉外案件」とは、国際的な法律案件を指すことになる。ここで、渉外案件を取り扱う弁護士は、「渉外弁護士」と通称される。この「渉外」や「渉外法律事務所」、「渉外弁護士」といった用語は法律上定義されているわけではなく、弁護士法などの法令中にも見られない。 「渉外案件」は以下の二つに大別され、これらはいずれも外国法共同事業を通しての取り扱いが可能となっている[1]。 日本企業による外国企業の買収、外国企業との合併や業務提携、日本国外における株式の発行や起債、金融取引、訴訟、仲裁などに係わる法務サービス (= 主に外国法が関連するもの) 外国企業や外資系国内企業による日本企業の買収、日本企業との合併や業務提携、日本国内での金融取引や訴訟などに係わるサービス (= 主に日本法が関連するもの)
概要
1) アウトバウンド業務
2) インバウンド業務
歴史
明治・大正期
明治5年(1872年)の司法職務定制により代言人制度が設けられた後、星亨、増島六一郎といった代言人が渉外法務を担う。増島は東京、横浜、神戸、上海に事務所をおいた。明治期には、米国人弁護士が日本において法律事務所を開設した例があり、そのうち、ニコラス・N・マカイバーが横浜に開設した法律事務所が、後の青木総合法律事務所の起源である。また、湯浅法律事務所(現在のユアサハラ法律特許事務所)も設立された。
終戦から60年代初めまで
第二次世界大戦終結後の連合国軍の占領下において、1949年制定の弁護士法の下、外国弁護士資格者(主にアメリカの弁護士)は、最高裁の承認を得て弁護士会の準会員として、日本において法律事務を行うということができるという特例が認められていた。なお、承認を受けた外国弁護士資格者の事務所は外国弁護士資格者法律事務所と称するものとされた。この特例は弁護士法の1955年改正によって終了したが、経過規定により、すでに準会員である外国弁護士はその後も引き続き業務を行うことができた。当時の渉外法務(主に米国との関係)はこのような準会員系事務所にほぼ独占されていた。後のアンダーソン・毛利法律事務所はこの時期に設立された準会員系の渉外事務所である。準会員系事務所ではないが、米国人弁護士であるトーマス・L・ブレークモア
以下のように分類できる。
企業法務
コーポレート