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情報
完成1933年
用途武道の稽古・競技場
運営皇宮警察本部
所在地〒100-0001
東京都千代田区千代田1番3号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分9秒 東経139度45分31秒 / 北緯35.68583度 東経139.75861度 / 35.68583; 139.75861 (済寧館)座標: 北緯35度41分9秒 東経139度45分31秒 / 北緯35.68583度 東経139.75861度 / 35.68583; 139.75861 (済寧館)
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済寧館(さいねいかん)とは、東京都千代田区千代田の皇居内にある道場。旧宮内省、現皇宮警察本部が所管する。 明治天皇の命により宮内卿徳大寺実則らが建設を進め、1883年(明治16年)に竣工した。館名は「詩経」大雅文王篇「済々たる多士、文王以て寧し」から採られた。華族、宮内官、皇宮警察官の武道稽古に使用され、数々の天覧試合や台覧試合の舞台となった。 その後改築や移転を経て、現在の建物は1933年(昭和8年)に竣工した。建坪300余坪、切妻千鳥破風造の伝統的建築様式である。内部には玉座(天皇の座席)が設けられ、その左右に有栖川宮熾仁親王筆の扁額、横山大観筆の富士山の絵画が飾られている。神棚はなく、玉座が神に見立てられている。床は非常に弾力性があり、稽古中に揺れて地震と間違われることもある。 皇宮警察の剣道家は戦前から現在まで白道着・白袴を着用している。これは済寧館の剣道師範を務めた中山博道が衛生に心をくばり推奨していたものであり、皇室に仕える清浄無垢な身を象徴している。
概要
歴史済寧館の玉座で観戦する昭和天皇(1934年)。左上は有栖川宮熾仁親王筆の扁額。
1883年(明治16年)
9月、東京府麹町区紀尾井町皇居付属地に竣工する。山岡鉄舟、河田景与、渡辺昇、上田馬之助、杉孫七郎、鷲尾隆聚、林友幸ら10余名が済寧館御用掛(剣術或いは槍術の指導者)に就任。
10月5日、開場式が開催される。
1884年(明治17年)
6月22日、剣槍術大会が開催される。山岡鉄舟、河田景与、渡辺昇、上田馬之助、鷲尾隆聚、真貝忠篤、松崎浪四郎、得能関四郎、柴田衛守、小南易知
1885年(明治18年)
6月14日、剣槍術大会が開催される。太政大臣三条実美、元老院議官河田景与、籠手田安定、海江田信義、安場保和、渡辺昇、鳥尾小弥太が臨席。得能関四郎?吉田武士郎、前田忠挙?坂部大作などの取組が行われる。松崎浪四郎?逸見宗助の対戦も組まれていたが、逸見は棄権した。
10月9日、天覧試合が開催される。宮内官、警察官、憲兵等が出場。
1888年(明治21年)
7月12日、明治宮殿造営に伴い、皇居蓮池門内に移築される。
同年、天覧試合が開催される。上田馬之助、逸見宗助、高橋赳太郎らが出場、12組の試合が行われた。
1894年(明治27年)
4月25日、宮内省内匠寮から皇宮警察に移管される[注釈 1]。
1923年(大正12年)
9月1日、関東大震災により損壊する。
1924年(大正13年)
改築(仮建築)される。
1929年(昭和4年)
5月4-5日、皇居内旧三の丸覆馬場及び済寧館において御大礼記念天覧武道大会が開催される。
1930年(昭和5年)
5月18日、台覧武道大会が開催される。閑院宮載仁親王、澄宮崇仁親王が臨席。剣道試合に300名が出場。高野佐三郎と中山博道による剣道形、園部秀雄と山内禎子による直心影流薙刀術の形なども演武される。
1933年(昭和8年)
皇宮警察の武道振興のため創設当時の規模に復することとなり、9月5日に大手門内で起工、12月に竣工する。皇宮警察官佐藤貞雄、羽賀準一、中倉清らが剣道の試合で活躍する。