渇愛_(仏教)
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「タンハー」はこの項目へ転送されています。ベトナムのタンハー県については「タインハ県」をご覧ください。

仏教用語
渇愛、愛
パーリ語ta?h?
サンスクリット語t????, (??????)
中国語貪愛 / ??
日本語渇愛
(ローマ字: katsu ai)
英語thirst, craving, desire, etc.
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 十二因縁 
無明(無知)





名色

六処









(存在)

(誕生)

老死(老いと死)
 

渇愛[1](かつあい、: Ta?h?, : t????)とは、十二因縁の一つで、対象のものごとを貪ったり、執着することを指す[2]仏教においては中核的概念のひとつであり[3]、身体・精神的な「渇き、欲望、渇望、貪欲」を指している[4][5]。愛(あい)とも訳される[2]

欲愛[2]: k?mata?h?) - 感官によって得られる刺激・快楽への渇愛

有愛[2]: bhavata?h?) - 存在することへの渇愛

非有愛[2]: vibhavata?h?) - 存在しなくなることへの渇愛

という以上の三種に分類される[6][7][8]

さらに渇愛は四諦にも記されており、それはの原因であり、これによって生けるもの輪廻の輪において死と再生を繰り返すとしている[4][5][6]
苦との関係

釈迦は四諦の二番目において、苦の中核的原因として渇愛を特定した[9]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

Ida? kho pana bhikkhave dukkhasamudaya? ariyasacca?: y?’ya? ta?h? ponobhavik? nandir?gasahagat? tatra tatr?bh?nandan?,yeyyath?da?: k?mata?h? bhavata?h? vibhavata?h?

比丘等よ、苦集聖諦とは此の如し、後有を齎し、喜貪倶行にして随處に歓喜する渇愛なり、
謂く、欲愛、有愛、無有愛なり。—パーリ仏典, 律蔵?度, 大?度, 38 Mahakkhandhaka?, Sri Lanka Tripitaka Project [10]

ワルポラ・ラーフラ(英語版)によれば、渇愛とは、苦と再生として現れるものである[3]。しかしそれは苦や輪廻の原因というだけではない、なぜならば、すべての生じるものは相対的であり、何かに依存しているためである[3]。パーリ仏典では苦の原因として、渇愛のほかにも、煩悩を述べている。しかし渇愛は常に冒頭で取り上げられ、中核的なものとして認識され、苦の「もっとも明確で直接的な原因」だとワルポラ・ラーフラは述べている[3]

ピーター・ハーヴェイによれば、仏教において渇愛は苦の主要な起源であるという[7]。苦は渇愛の精神状態が反映されたものである。世界とは常に変化し続けており、また本質的に不完全なものであるが故に、渇愛が大きくなれば、欲求不満も大きくなる。渇愛はまた、人間間の衝突や喧嘩を引き起こすため、苦痛をもたらす。これらはすべて苦である[7]。釈迦は集諦にて、渇愛は再生をもたらし、終わりなき輪廻をもたらすと述べた。 さらに渇愛の3タイプを示しており、それは感覚(的快感への執著)、存在(への執著)、非存在(への執著)である[11]。仏教用語では、正見邪見があり、邪見では最終的に渇愛につながる。しかし「一般的には正見であるもの」、たとえば僧侶への寄付なども、執着の面があるのだという[12] 。渇愛の終わりは、人が「出世間の正見」を手に入れたときに起こり、それは無常無我への洞察を通して得られるという[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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