清露国境紛争[1]
紛争地帯(黄土色の縦線地域)と条約締結後の国境(黒線)
時1652年?1689年
場所黒竜江省ことアムール州
発端アムール川の支配、ザバイカルの支配
結果
清の勝利
ネルチンスク条約
衝突した勢力
清
李氏朝鮮
ハルハ部モンゴル
ロシア・ツァーリ国
コサック
指揮官
康熙帝
ハイセ
アルバジンの戦い
清 :
ロシア:2,000人
被害者数
1650年代の戦い
清:約数百人
李氏朝鮮:32人
アルバジン戦争(6年戦争)
ロシア:800人[3]
清露国境紛争(しんろこっきょうふんそう)は、1652年から1689年にかけて、アムール川(黒竜江)沿岸地帯の支配をめぐって、大清帝国とロシア・ツァーリ国のあいだに起きた断続的な紛争である。特に大きな戦いは1650年代に起きた紛争とアルバジン戦争(1683年-1689年)の2回であった。
16世紀-17世紀にかけて、ロシア人はシベリアに次々と進出していった。主な目的は毛皮などを先住民族からヤサク(貢納)として取り立てることである[4]。明と清の移り変わりのさなかで、清も黒竜江周辺を支配してまもなく[5]、衝突が多発した。1650年代に、清は勅令を発し、李氏朝鮮にも援軍を出させ、ロシア人たちと対決した[6]。いっぽうで、ロシア・ツァーリ国は清との貿易を望んでいたが、交渉は進まなかった。またザバイカル地域での貢納民ブリヤート人の帰属をめぐり、ロシア人はハルハ部のモンゴル人とも争いはじめていた[7]。
1683年から1689年にかけてのアルバジン戦争(六年戦争)で、争いは頂点に達する[8]。ロシア政府と清国政府は交渉を続け、1689年にネルチンスク条約が結ばれ、国境が画定し、貿易が始まった[9]。 シベリア東南、アムール川(黒竜江)流域が一貫して中心となる係争地である。それとともに、スタノヴォイ山脈(大興安嶺)南部のザバイカル地方も、ブリヤート人やハルハ部のモンゴル人を巻き込んだ争いの場となった。水文学では、北極圏へ流れ込む川と南のアムール川へ流れ込む川はスタノヴォイ山脈で分かれる。生態学的には、この地域はタイガの最東南に位置し、肥沃な地域を含んでいた。 歴史的には、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この地域は紀元7世紀頃から中華-満州文化圏の北端[要出典]であった。数々の中華王朝が、その盛期に領有を主張し、砦を築き朝貢を集めてきた。モンゴル人による元朝は、黒竜江河口近くのアムグン川下降に東征元帥府
背景
係争地の地誌