清野謙次
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清野 謙次人物情報
生誕 (1885-08-14)
1885年8月14日
日本岡山県
死没1955年12月27日(1955-12-27)(70歳)
出身校京都帝国大学医学部
学問
研究分野医学人類学考古学
研究機関京都帝国大学医学部
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清野 謙次(きよの けんじ、1885年8月14日 - 1955年12月27日)は、日本の医学者、人類学者、考古学者、考古学・民俗学資料の収集家。生体染色法の応用で組織球性細胞系を発見したことで知られる。
来歴・人物

1885年、岡山県医学校長兼病院長の清野勇の長男として生まれる。父の勇は東京帝国大学医学部第一期卒業生で、のちに大阪医学校の校長・病院長も務め、臨床医学の大家として知られ財を成した[1][2]。祖父の清野一学は沼津藩医[1]。謙次は北野中学第六高等学校 (旧制)を経て、考古学の道を希望したが父親が許さず京大医学部へ進学[1]

1909年、京都帝国大学医学部を卒業。藤浪鑑病理学教室へ助手として入り、生体染色の研究を始める[3]。外科の鳥潟隆三、生理学の加藤元一(のち慶應大学移籍)と並び、「京大の三秀才」と言われた[3]

1912年?1914年、ドイツフライブルク大学に留学し、ルードウィッヒ・アショフ (de:Ludwig Aschoff) 教授の下で生体染色の研究を続行。1914年組織球性細胞を発見。1914年の復活祭の日に、それをhistiocyteと命名することをアショフ教授に許され、世界の病理学者の仲間入りをする。帰国後、京大講師となる。

1916年、京都帝国大学医学部助教授となる。医学博士の学位を受ける。

1917年、ドイツ、フランスへ留学[4]

1918年から1919年に行われた国府遺跡の発掘に参加し、考古学熱が再燃[3]。この頃より日本全土にわたり石器時代人骨の発掘・収集につとめ、さらに樺太アイヌ人墓地から数多くの人骨を発掘・収集した[5](アイヌ墓地盗掘は、清野以前にも1865年にイギリス人学者が、1888年に小金井良精が行なっている[6])。各地から千余体の遺骨を集め、父親が建てた自邸である京都市田中関田町の広大な洋館にそれらを保管し、夫婦は1200坪ある敷地内に小さな日本家屋を建て、そこで暮らした[2][3]

1921年、京大医学部教授となり、微生物教室を担当。視察のため渡欧[4]

1922年、生体染色の研究に対して帝国学士院賞を受賞。

1924年、病理学教室を兼任。アイヌ人と縄紋人とは骨が異なることを指摘し、アイヌ人とは異なる均一人種が日本にいたとし、これを「日本原人」と呼び、『日本原人論』を出版し、東大の小金井良精考古学教授の縄紋人アイヌ説に反論[1]

1926年、「津雲石器時代人はアイヌ人なりや」という論説を発表。原日本人論争において以後主流の説を確立するまでに至る。

1926年、藤浪鑑の後継者として京大病理学教室の専任教授となり、2年前に放火により焼失した病理学教室の研究資料の再収集に当たる。その際、予算申請書の金額の末尾に全項目0を一つ書き加えて申請し、文部省がそのまま予算を執行したため、余るほどの金額を獲得した[7]

1938年、生体染色の研究総括をドイツ語論文として刊行し、世界の研究所と研究者約1000名に対し頒布。京大文学部考古学の授業を担当。書生らの面倒見もよく、教室の研究生を博士にすることでは京大一だった[1]

同年、後述する窃盗事件(清野事件)を起こし、有罪判決を受け、京大教授を免ぜられる。
免職後

上京して目黒不動尊近くの邸宅で暮らし[2]太平洋協会の嘱託となり、大東亜共栄圏建設に人類学者として参加。大東亜共栄圏建設における国民のイデオロギー的統一を積極的に企てた。また、京都大学での愛弟子にあたる石井四郎が部隊長だった満州731部隊に対しては病理解剖の最高顧問を務め[8]、人材確保・指導などに「異常なまでにてこ入れした」とされる[9]

戦災で目黒の自邸が全焼し、茨城県木原村(現・美浦村)に疎開し、6-7年隠棲する[2]

1943年には、京大助手時代の恩師・足立文太郎がかつて手掛けた石田三成の遺骨調査を引き継ぎ、その研究成果をもとに『日本人種論変遷史』(1944)、『日本民族生成論』(1946)、『古代人骨の研究に基づく日本人種論』(1949)を出版した[10]
戦後

戦後、アメリカとの密約に基づき戦犯追及を逃れ、依然として医学と考古学の分野で影響力を残し、厚生科学研究所長や東京医科大学教授を歴任。戦時中から著していた3部作『古代人骨の研究に基づく日本人種論』(1949・岩波書店)『日本考古学・人類学史』(1955年・岩波書店)『日本貝塚の研究』(1969年・岩波書店)をまとめ、戦後に刊行した。

収集した大量の考古学・人類学関連資料を整理し、1953年ごろ、目黒の焼け跡に洋館を新築して移り住んだが、1955年12月27日に心臓麻痺で急逝した[2]。死後、自宅に残っていた一般蔵書数千冊が入札売り立てされ、その総額は当時の金額で500万円に上ったという[2]
原日本人論争をめぐって
「津雲石器時代人はアイヌ人なりや」論説発表

1926年当時、日本旧石器時代人の論争は小金井良精のアイヌ説にまとまりつつあった。彼は1919年から翌年にかけて、岡山県津雲遺跡で縄文人骨46体を発掘したのを皮切りに、きわめて精密な計画のもとに異常な速さで日本各地の古人骨を入手していく。そして、1926年「津雲石器時代人はアイヌ人なりや」という論説を発表する。その論説は、彼が収集した日本各地の古人骨を使って人骨の各部位の長さの比率などを測定したもので、「現在の日本人とアイヌ人は、津雲人と比較するとずっと似ている」と主張した。

彼は「感情を入れる余地をなくする為には研究の結果を正確科学の趣旨に基づいて数学的に取り扱うのが宜しい」といい、津雲人、アイヌ人および現代日本人相互の三角関係を求める。すなわち、三者の人骨を計測しモリソン・マルチン氏変差図を作成すると「津雲人は幾分アイヌ人に類似している。そしてアイヌ・畿内人間の距離は殆どアイヌ人・津雲人間の距離と等しい」「元来アイヌ人といい、日本人というのは、今日の体質の人民に対する名称である。日本石器時代人民がこの両者に血を分けたけれども、日本石器時代人民と同体質のものは既に地上に存在せぬ」と主張した。つづいて翌月発表の論文ではハインリッヒ=ミュンターの論文を読み、ポニアトウスキー氏型差公式によるのがもっとも正確であると判断して、三角関係図を作成し、やはり「日本人とアイヌ人は、アイヌ人と津雲人よりもずっと似ている。津雲人は現代の両人種よりもずっと異なっている」ことを確認する。その理由として「現代アイヌ人も現代日本人も元々日本原人なるものがあり、それが進化して、南北における隣接人種との混血によって成ったものだ」としている。

当時日本旧石器時代人の論争で有力だった小金井のアイヌ説を真っ向から否定した清野説は多くの学者に歓迎された。これは時局的に微妙な原日本人論争を避けることができるためとも言われる。実際、清野の論文の後は、学者らは原日本人のことを論文に「書かなくなった」。以降清野説はDNA分析が主流になるまで原日本人論争の主流となった。

アイヌ説の小金井良精は「北方において、いかなる種族と混血して、現今のごときアイヌができたのか、全く不明」であるとの批判をもっていたが、それを公にすることもなく、自説を守り通した。東京大学人類学教室の大島(須田)昭義は清野の研究は「文化をもって石器時代人種を論じ来た者への頂門の一針」であると受け取った。東大人類学教室の中谷治宇二郎は「自分は先史考古学の研究を企てている者の一人であるから、人種論は分からない。また、急いで分かる必要もないと思っている」という。これまでの先住民論争は「常に考古学的、歴史的、民族的な立場」に基づいて行われていた。旧来の方法を捨てて「説は一々の科学的考察の元に到達されたもので、少しの予断も許さない以上、当然の帰結である。清野博士の獲得されたものは学説ではなく事実である」とまで極言した。

明治・大正期に人種論にとりくんでいた形質人類学者は小金井一人であるといっても過言ではなかったし、既に70歳に近い高齢の小金井から次の世代への交代時期が来ていた。


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