清華家(せいがけ)は、公家の家格のひとつ。最上位の五摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる主に7家(三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭)を指す(室町時代には10家あった。また江戸期には広幡・醍醐の両家を加えて9家など、時代によって家格を有した家の数が異なる)。 英雄家、華族ともいう。摂家と清華家の子弟は、公達(きんだち)と呼ばれた。 大臣・大将・皇后などの地位は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}摂関政治期には当然摂関とその近親が独占するものであった。[要出典]一条天皇御世
成立過程
後三条天皇の御世以降、摂関家が外戚の地位を失い、代わって外戚となった家系が、のちに清華家と呼ばれることになる家格の原形をつくった。清華家に相当する家格はすでに院政期には成立している。したがって、清華家の家格は大臣・大将に昇進できるということのほかに「娘が皇后になる資格がある」という点もある。
また豊臣政権においては、五大老の徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしたとされ、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けた。
なおいわゆる「七清華」は、清華家の家格を有する多数の家系(たとえば藤原北家閑院流の山階家・洞院家、村上源氏顕房流の土御門家・堀川家)が中世を通じて絶家したり清華の家格を失ったりした結果、最終的に7家しか残らなかったことを意味しており、はじめから家系が固定していたわけではない。 左・右近衛大将・大臣を兼任し、内大臣・右大臣・左大臣を経て、最高は太政大臣まで昇進できるが、清華家の家格が誕生した鎌倉時代初期 江戸時代においては、従五位下侍従を振り出しに[注釈 1]、近衛権中将、権中納言[注釈 2]・権大納言を経て、右近衛大将[注釈 3]を兼ね大臣に至る。 ただし、江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者(摂家)に限られ、清華家から出ることはなかった[2]。清華家の極官は事実上左大臣であったが、江戸時代期を通じてわずか10例と少なく、老齢の当主が名誉的に任じられたケースばかりで在任期間も短い[3]。大炊御門経光はわずか1日の在任であり、最長の花山院定好でも1年8ヶ月である。さらに寛延2年(1749年)の醍醐冬熙を最後に幕末まで清華家の左大臣は出ることはなかった[3]。他の時期でも三公を摂家が占める例が多く、さらに摂家の威信拡大により清華家の大臣は評議にすら参加しないことが先例とされていた時期もあった[4]。江戸時代には清華家の極官について、摂関家側は左大臣、清華家側は太政大臣と認識していて、認識の対立があった可能性も指摘されている[5]。 1884年(明治17年)の華族令によって、清華の家格の家は一律に侯爵に叙されることになったが、三条家のみ三条実美の功績により公爵とされた。その後、西園寺家は西園寺公望の、徳大寺家は徳大寺実則の功績により公爵となった。
昇進過程
鎌倉時代から安土桃山時代
江戸時代
明治時代から華族令廃止まで
清華家の一覧
七家
三条家(転法輪家)
藤原北家閑院流(太政大臣藤原公季の子孫)。権大納言公実の二男、太政大臣三条実行(1080年 - 1162年)が初代。清華家に次ぐ大臣家に三条家の一族を配することで権力を保った。庶流は大臣家の嵯峨家や三条西を始め、羽林家の滋野井家、姉小路家 等、23家にのぼる。家業:笛・装束。江戸時代の家禄:469石、家紋:片喰に唐花。近代の爵位:公爵。
西園寺家
藤原北家閑院流。同じく公実の三男、権中納言西園寺通季(1090年 - 1128年)を祖とする。通季は母藤原光子が正妻だったため嫡子とされたが、早世したために兄弟の中でも官位が最も低かった。4代目の太政大臣公経に至って、親幕派として承久の乱後権勢を誇り、摂関家から外戚の地位と関東申次の世襲職を奪った。公経は京洛北山に氏寺西園寺を建立して、家名の由来となった。庶流に菊亭家、羽林家の清水谷家や四辻家や橋本家、大宮家 等あり。家業:琵琶。江戸時代の家禄:597石、家紋:尾長左三つ巴。近代の爵位:侯爵 → 公爵。
徳大寺家
藤原北家閑院流。公実の四男、左大臣徳大寺実能(1096年 - 1157年)を始祖とする。実能の嫡孫、左大臣実定は藤原俊成の妹が生んだ子で定家の従兄にあたり、自らも優れた歌人である。この家は鳥羽・後白河院政期の後宮をほぼ独占したが、鎌倉以後やや衰えた。西園寺家と同族意識が強く、たとえば明治時代の西園寺公望は徳大寺家に生まれ西園寺家に入嗣している。家業:笛、江戸時代の家禄:約410石、家紋:木瓜唐花角浮線綾。近代の爵位:侯爵 → 公爵。
久我家
村上天皇の第8皇子具平親王の男、右大臣源師房(1008年 - 1077年)を祖とする村上源氏の嫡流。