清瀬保二
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清瀬 保二
1955年
基本情報
生誕 (1900-11-13) 1900年11月13日
出身地 日本大分県
死没 (1981-09-14) 1981年9月14日(81歳没)
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家

ポータル クラシック音楽

清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 1981年9月14日)は、大分県生まれの作曲家目次

1 経歴

2 代表作

2.1 管弦楽曲

2.2 歌曲

2.3 合唱曲

2.4 器楽曲

2.5 映画音楽


3 著書

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

経歴

大分県宇佐郡四日市町(現宇佐市)で清瀬善三の二男として生まれる[1]。生家は、地元で一、二を争う素封家。少年のころからヴァイオリンを嗜み、1919年、旧制松山高等学校在学中に作曲家を志すようになる。同年12月、作曲家になるため同校を中退して上京、まず友人に紹介された田辺尚雄を訪ね、山田耕筰に約2ヶ月間師事。以後、鹿児島にこもり、ほぼ独学で作曲を学ぶ。1930年には「新興作曲家連盟」の結成に発起人の一人として参加。1932年から3年間クラウス・プリングスハイムに理論を師事する。1940年皇紀2600年記念として委嘱を受け、「日本舞踏組曲」を作曲。1946年には「新作曲派協会」を設立、積極的に作品を発表した。

ペンタトニックを駆使し、素朴で正直な作品を創作した。弟子には武満徹佐藤敏直仲俣申喜男長沢勝俊がいる。日本現代作曲家連盟初代委員長などを務めた。

居住跡の碑が世田谷区砧にある。
代表作
管弦楽曲

交響曲「黎明」(1937年、新京音楽協会の委嘱による)

日本民謡の主題による幻想曲(1939年、
JOAKの委嘱による「国民詩曲」のひとつとして作曲)

古代に寄す (1942年)

日本舞踏組曲 (1940年)

日本祭礼舞曲 (1942年、「日本舞踏組曲」から第4・5楽章を削除。)

御軍に従い奉らむ (1942年)(作詞:蔵原伸二郎)

ピアノ協奏曲 (1954年)

レクイエム 無名戦士 (1963年)

歌曲

清瀬保二歌曲集 一部 (1922-1925年)

同 二部 (1928-1941年)

同 三部 (1950-1966年)

合唱曲

蛇祭り行進 (1954年)
草野心平の詩による。

冬のもてこし春だから (1961年) 三好達治の詩による。

板敷山の夜(1957年) 長田恒雄の詩による

器楽曲

小組曲 (1931年、ピアノ)

丘の春 (1932年、ピアノ)(
チェレプニン・コレクション No.4, 5)

小組曲 (1935年、ピアノ)(チェレプニン・コレクション No.10)

第2ピアノ曲集 (1940年)

第1ヴァイオリンソナタ (1942年)

弦楽四重奏曲 変ロ調(1951年)

ヴァイオリンとピアノのための二楽章 (1960年)

尺八三重奏曲 (1964年)

日本楽器による八重奏曲 (1964年)

日本楽器のための四重奏曲 (1965年)

子供のための4つの小品 (1966年、ピアノ)

映画音楽

女の顔今井正監督、1949年)

お国と五平成瀬巳喜男監督、1952年)

沓掛時次郎佐伯清監督、1954年)

番場の忠太郎中川信夫監督、1955年)

著書

清瀬保二著作集編集委員会編『清瀬保二著作集――われらの道』(同時代社/1983年)

脚注^ 『大分県歴史人物事典』182頁。

参考文献

『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。

関連項目

日本の交響作品展


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