清浦 雷作
生誕1911年12月5日
死没 (1998-08-18) 1998年8月18日(86歳没)
国籍 日本
研究分野応用化学
研究機関東京工業大学
出身校東京工業大学応用化学科
主な業績水俣病アミン説
プロジェクト:人物伝
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清浦 雷作(きようら らいさく、1911年12月5日 - 1998年8月18日)は、日本の応用化学者、公害問題評論家[1]。
1959年に水俣病の原因調査をした際に「有機アミン説」を唱え[2]、マスコミ操作も積極的に行った[3]。御用学者の一例として知られる[4][5][6]。 1937年、東京工業大学応用化学科卒業。同大学副手、助教授、教授を歴任した[7]。 1959年7月22日、熊本大学水俣病研究班は、武内忠男や徳臣晴比古らの研究に基づいて、「水俣病の原因は有機水銀であることがほぼ確定的になった」という発表を行った[8][9]。新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場から排出された水銀による被害である疑いが濃くなると、清浦は8月24日に水俣を訪れ、5日間現地を調査した。8月29日、清浦は水俣市役所で記者会見し「水俣港防波堤の外側海水は、日本にある他の化学工場所在地の海水とほぼ同程度で正常だ」と述べ、水俣病は工場廃液とは関係がないと発表した[2][10]。同年11月11日、「有機アミン説」を通商産業省に報告するが[2][11]、それだけでなく、報告内容を記者発表することを大手新聞社に事前にリーク。清浦は実際に記者会見し、朝日新聞などに「考えられぬ工場排水、水俣病の原因、東工大教授が研究報告」と記事に書かせた[3]。 1960年1月、政府は経済企画庁、通商省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させて原因究明にあたらせた。協議会には学識経験者として、熊本大学研究班の内田槇男と喜田村正次、東京水産大学の宇田道隆、東京大学の松江吉行、清浦らが参加した[2]。 同年4月12日、同協議会の第2回会合が開かれ、内田槇男から「有機水銀説」が報告されるが、これに対し清浦が反論。「水俣病の原因は水銀ではなく、アミン系の毒物である」と述べ、貝によるアミン中毒説を発表した[12]。このときも清浦は事前に記者に知らせ、その日の夕刊は「水俣病の水銀説否定」と見出しを大きく掲げた[3]。清浦のアミン説発表により水俣病認定が15年遅れたといわれる。「水俣病#発見に関わる経過」も参照 1998年8月18日午後7時、消化管出血のため死去。86歳没。
来歴・人物
研究・著作
京都帝国大学 工学博士論文 「酸化ヴアナヂウム触媒に関する研究」1942年[13]
共著『工業化学計算 上巻』広川書店 1955年
『工業廃水による水質汚濁とその対策』神奈川県商工部工務課 1960年
共著『硫酸・硝酸・塩酸』日刊工業新聞社 1961年 (工業化学全書 第45)
編著『公害と住民 : その現状と対策』新生活事業センター 1966年
『公害への挑戦 : 一億人をむしばむ文明のガン』講談社 1966年 (ブルーバックス)
『公害の経済衝撃』講談社 1971年
『世界の環境汚染 : その実態と各国の対策』日本経済新聞社 1972年
脚注^ CD人物レファレンス事典 日本編「清浦雷作【きようららいさく】」
^ a b c d 首藤留夫 (1969年6月25日). “『生ける人形の告発―水俣病15年の記録』第5章
^ a b c 朝日新聞1994年3月25日、3社、33頁。
^ 吉原功「2018年、『民主主義のカナリア』―退職研究者のメモワール」 明治学院大学機関リポジトリ。
^ “『熊本日日新聞』1968年5月16日、「水俣病は叫ぶ(19)」