清浄華院
大殿
所在地京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度1分30.6秒 東経135度46分6.4秒 / 北緯35.025167度 東経135.768444度 / 35.025167; 135.768444
清浄華院(しょうじょうけいん)は、京都市上京区にある浄土宗の大本山の寺院。呼称は院号のみで、山号・寺号はない。本尊は法然上人御影。浄土宗七大本山の一つであり、同宗の京都四ヶ本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、金戒光明寺)の一つである。寺伝によれば平安時代に清和天皇の勅願により円仁が開基したとされる。法然上人二十五霊場第23番札所。2021年(令和3年)5月26日時点での法主は飯田実雄。 『清浄華院誌要』によれば、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により宮中に建立した仏殿・禁裏内道場として発足し、当初は円(法華経)密(密教)浄(浄土教)戒(戒律)の四宗兼学の寺院であったという。後白河天皇・後鳥羽天皇・高倉天皇の三天皇に授戒した浄土宗祖・法然がその功績により当院を下賜され、以後浄土宗寺院となったと伝える。このため円仁を開創開山、法然を改宗開山として仰いでいる。ただし、宮中における創建については『日本三代実録』『日本紀略』になく、法然が当院を下賜された旨も法然伝にはみえない[1]。 皇室の帰依篤く当初より現在まで御所の近くに有り続けたため、都以外に伽藍を構えたことがないことから「山号がない」とされている。 清浄華院の存在が史料によって裏付けられるのは鎌倉時代以降であり、鎌倉時代末期の向阿証賢(是心とも、1265年 - 1336年)が事実上の開基である[2]。向阿は乾元2年(1302年)兄弟子・専空より三条坊門高倉(現・中京区御池高倉御所八幡付近)の専修院(専修念仏院)を伽藍や本尊ごと譲り受け、のちに「浄華院」と改称したことが同年3月15日付けの文書から確認できる[3][4]。近世以前の史料中では「浄華院」あるいは「浄花院」と記述されることが多く、これが本来の院名だったと推定される[2]。 少なくとも元弘3年(1333年)頃には浄華院という名称を用いるようになっているが、この浄華院が寺伝通り法然が賜った禁裏内道場の後身であるのか、向阿が自身が創建したものなのかは議論が分かれている。 向阿は初め園城寺(三井寺)にて出家したが名声を厭い礼阿然空の下で浄土門に帰し、仮名法語『三部仮名抄』を著すなどして布教に励み、師の然空とともに鎮西派の京都再定着に大いに貢献した人物である。亀山天皇皇子・恒明親王や三条実重など貴顕の帰依を集めた向阿の活躍により、清浄華院は丹波国や越前国西谷庄などの所領を持っていたことが分かっている。また伽藍も京都の中心地に構えられていることから、当時よりそれなりの勢力をもつ寺院であったことがうかがえる。 その後、清浄華院は14世紀中頃の玄心の時に土御門室町(現・京都市上京区元浄花院町付近)に移転する。この移転は三条坊門殿に住んでいた足利直義が、暦応2年(1338年)に持仏堂的な寺院として等持院を建立、邸宅に隣接していた清浄華院の敷地を接収したためと考えられている。ただし、等持院は暦応4年(1341年)に足利尊氏が後醍醐天皇の供養のため創建したとの説もあり、また清浄華院の敷地が接収されたのは等持院の鎮守御所八幡宮創建時であったなど諸説あるが、少なくとも観応2年(1351年)には土御門室町の地に移転を果たしていたことが分かっている。移転先は昭慶門院が世良親王に譲った御所、土御門殿跡と伝えられている。『増鏡』に昭慶門院の「土御門室町にありし院」が「この頃は寺に成りて」という記事が見え、この「寺」は浄華院のことを指すと考えられている。 いずれにしろ清浄華院は室町時代を通して京のメインストリートであった室町通に面して境内を営み、土御門東洞院殿や室町第に程近い政治と文化の中心地に伽藍を構えた。応安元年(1368年)には八世・敬法の弟子の良如が越前敦賀の西福寺を建立しており門末寺院を擁する一山組織を形成していたことがうかがえる。また天台僧であった隆尭 京都での立地も幸いして室町時代には皇室や公家はもちろん、幕府や武家の帰依を受けるようになり、特に称光天皇と足利義教より篤い帰依を受けた佛立恵照国師等熈
歴史
創建
室町時代
近年の研究では、泉涌寺を拠点として活躍した律僧無人如導は、四世礼阿然空の弟子・良智より鎮西一条流を相承、布教し、その信徒は彼の号を採って「見蓮上人門徒」と呼ばれた。入宋求法により俊?が伝えた泉涌寺の北京律は当時最先端の仏教として持て囃され、そこにさらに鎮西儀の念仏を併修する「見蓮上人門徒」は、当時の貴顕の信仰を集め見を通字とする見号を名乗るものが多かった。その最新とされた律の教えが当時の浄土宗の弱点であった威儀戒律を補うものとなり、見蓮上人門徒が媒介する泉涌寺との交流が清浄華院の興隆の一助となったとする説がある。[5]
等熈の活躍によりこの頃の清浄華院は隆盛の絶頂を迎えており、「鎮西一流之正脈(『建内記』)」の本山とも称された。当時の公家の日記や諸史料には、まさに浄土宗鎮西派の筆頭寺院として振る舞う清浄華院の様子が記されている。室町時代の浄土宗は幕府が帰依した禅宗等に比べれば小さな勢力であり、教団としても他宗に寄寓している「寓宗」として見なされていた。法然門下教団内では当時西山派に連なっていた廬山寺や二尊院が天台宗の影響下で貴顕の帰依を得て勢力を持っていたものの、鎮西派として朝廷や幕府による庇護を受けて本山の格式を有した寺院は清浄華院の他にはなかったのである。蓮如の親族なども清浄華院の門末寺院で僧侶となっていたことが知られており、法然門下教団の有力寺院として活動していたことがわかる。