座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度48分 東経129度47分 / 北緯41.800度 東経129.783度 / 41.800; 129.783
清津市位置
各種表記
チョソングル:???
漢字:C津市
日本語読み仮名:せいしんし
片仮名転写:チョンジンシ
ローマ字転写 (MR):Ch'?ngjin-si
統計
行政
国: 朝鮮民主主義人民共和国
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清津市(チョンジンし、???)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道の道都。朝鮮北部の重要な港湾工業都市である。
推定人口、582,480人(1993年)。 咸鏡北道南部に位置し、日本海に面する港湾都市である。東は日本海に面し、西は富寧郡、茂山郡、南は鏡城郡、北は会寧市、羅先特別市と接する。清津市中心部の衛星画像 年平均気温は8.4度。1月の平均気温は-5.4度と沿岸部のため内陸部に比べると寒さは緩和される。また、8月の平均気温も21.7度と、比較的涼しい。 古代には高句麗、渤海の領域だったが、その後、金や元の支配下に入る。高麗末期、鏡城郡に編入された。 李氏朝鮮時代には富居県所属の小漁村に過ぎなかったが、1904年(明治37年)に日露戦争が勃発し、日本軍の兵員や物資の引き揚げ基地として利用された。1908年(明治41年)、日本側の要求によって万国通商港 日本統治下では隣接する羅南(1940年〈昭和15年〉に清津府に併合)に大日本帝国陸軍の第19師団が置かれた。1930年代には、日本製鐵の清津製鉄所が建設されるなどして工業が発達するとともに、いわゆる「北鮮三港」(清津・羅津・雄基)の一つとして、日本海経由で日本内地と満洲とを短絡するための港湾都市として整備が行われた。日本統治時代の清津港清津市街地(2011年撮影) 1945年(昭和20年)8月13日、清津をソ連軍(赤軍)が占領し、事実上、朝鮮において最初に日本の統治から離れた都市となった。1960年から1967年、及び1977年から1985年の間、咸鏡北道から分離され直轄市とされたが、1985年以降は再び咸鏡北道に編入され、その道都になっている。1990年代には食糧危機が発生する(苦難の行軍を参照)。 この節の出典[2]
地理
気候
歴史
年表
1895年 - 鏡城府富寧郡となる(二十三府制)。
1896年 - 咸鏡北道に所属する富寧郡となる。
1907年 - 清津府に改編される。
1914年4月1日 - 郡面併合により、咸鏡北道清津府を分割し、清津港