清河寺_(大字)
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清河寺
大字
臨済宗清河寺
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}清河寺清河寺の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度56分11.3秒 東経139度34分58.98秒 / 北緯35.936472度 東経139.5830500度 / 35.936472; 139.5830500
日本
都道府県 埼玉県
市町村 さいたま市
西区
地域大宮市
人口(2017年平成29年)9月1日時点)[1]
 ? 合計3,146人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号331-0048[2]
市外局番048[3]
ナンバープレート大宮
座標は大龍山清河寺の位置

清河寺(せいがんじ)は、埼玉県さいたま市西区大字郵便番号は331-0048[2]。さいたま市の難読地名の一つに数えられる[4]
地理

さいたま市西区北東部のおおむね大宮台地上に位置する。西の境界は滝沼川が流れて周囲を開析された沖積平野がみられる。東側で大字内野本郷に、南側で宮前町や大字内野本郷の飛地に、西側で西大宮や大字高木に、北側で上尾市大字堤崎やさいたま市西区西新井に隣接する。荒川の河川敷内である川越市と西区との市境付近に、飛地が二か所存在する。地内は全域が市街化調整区域であり[5]、全体的には農地が多い。

かつてはさいたま市消防局西消防署やさいたま市立指扇中学校も清河寺に位置していたが、土地区画整理事業の完了に伴う町名地番変更により所在地が西大宮となり、清河寺から外れている。
歴史

もとは武蔵国足立郡指扇領に属する清河寺村であった[6]。古くは水判土荘内野郷に属していたといわれている[7]。近世初頭に内野郷より分村された[6]。村高は正保年間の『武蔵田園簿』では255(田138石余、畑116石余、山銭永390文)、『元禄郷帳』では259石余、『天保郷帳』では297石余であった[7]助郷中山道上尾宿に出役していたが、正徳安永年間は日光御成街道大門宿にも出役していた。化政期の戸数は37軒で、村の規模は東西8、南北19町であった[7]。地内にある寺院の清河寺には、1590年天正18年)に寺領5石が寄進されていた[7]。名前は清河寺周囲の小名をそのまま村名とした[6]

1590年天正18年)の知行旗本三宅氏、1596年慶長元年)より幕府領[7] となる。

1623年元和9年)より知行は旗本山内氏、1689年元禄2年)より幕府領1702年(元禄15年)より知行は旗本小川氏[7]

1828年文政11年)より、上尾宿寄場64か村組合に所属していた[7]

幕末の時点では足立郡に属し、明治初年の『旧高旧領取調帳』の記載によると、小川源之進の知行、および清河寺領[8]

1869年明治2年)12月2日:旗本領が上知され、浦和県の管轄となる(府藩県三治制も参照)。

1871年(明治4年)11月13日第1次府県統合により、埼玉県の管轄となる。

1873年(明治6年):清河寺の境内を仮用して、清河学校(現・さいたま市立指扇小学校)が開設される[7][9]。なお、文化年間より寺子屋が開設されていた。

1879年(明治12年)3月17日郡区町村編制法により成立した北足立郡に属す。郡役所は浦和宿に設置。

1889年(明治22年)4月1日町村制施行に伴い、指扇村・宝来村・峯岸村・内野本郷村・西新井村・中釘村・清河寺村・高木村・指扇領辻村・指扇領別所村が合併し、指扇村が発足。指扇村の大字清河寺となる[7]

1950年昭和25年):地内に指扇村立指扇中学校(現・さいたま市立指扇中学校)が移転する。

1955年(昭和30年)1月1日 - 指扇村・馬宮村植水村片柳村七里村春岡村大宮市へ編入合併され[10]、同市の大字となる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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