清水秀雄
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この項目では、日本のプロ野球選手について説明しています。その他の「清水秀雄」については「清水秀雄 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

清水 秀雄1950年撮影
基本情報
国籍 日本
出身地島根県松江市
生年月日1918年7月8日
没年月日 (1964-03-23) 1964年3月23日(45歳没)
身長
体重174 cm
72 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手 一塁手 外野手
プロ入り1940年
初出場1940年3月15日
最終出場1953年9月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


米子中学校

明治大学

南海軍
グレートリング
(1940, 1942 - 1944、1946)

中部日本
中部日本ドラゴンズ
中日ドラゴンズ
(1946 - 1950)

大洋ホエールズ
大洋松竹ロビンス
(1952 - 1953)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

清水 秀雄(しみず ひでお、1918年7月8日 - 1964年3月23日[1])は、島根県松江市[1]出身のプロ野球選手。ポジションは投手一塁手外野手
来歴

1918年7月8日出生。当時の米子市は、山陰で最も野球の盛んな地域と言われていた。清水は実家の近所に空き地があった事も関係し、自然と幼少期から野球に触れるようになる。明道小学校4年時に野球部(今で言う少年野球チーム)に入部し、野球を本格的に開始。後にサウスポーとしてプロ野球で活躍する清水だが、当初は右投げでプレーしていた。父親に左利きを矯正されていた事が大きく影響している。明道小学校6年生の頃にサウスポーに転向し、投手としてもプレーし始める[2]

米子中学校(現米子東高校)では1935年甲子園にエースとして春夏連続出場。いずれも初戦敗退に終わったが、橋戸頑鉄から高い評価を受けた[2]。当時、山陰のライバル校であった鳥取一中には、藤井勇中河美芳岩垣二郎と、後にプロ野球で活躍する選手が所属していた。三人とも左打者であったが、藤井と中河は左腕である清水の速球を打ち崩すために右打者に挑戦。一方で、岩垣は左打ちにこだわり、右打者への転向を断固拒否している[3]。清水の同級生には、バッテリーを組んだ井上親一郎のほか、一塁手成田啓二、一学年下の外野手木下勇がいた。また、下級生には土井垣武長谷川善三も在籍している。

中学卒業後は明治大学へ進学。東京六大学リーグでは、児玉利一との継投で1937年春季から1938年秋季にかけてリーグ初の4連覇に貢献。特に1938年は秋季シーズンだけで62三振を奪うなど、年間100奪三振を記録した[4]。リーグ通算47試合登板、17勝8敗、防御率1.86、184奪三振。

1940年に大学を中退して南海へ入団する。契約金に関して南海側と連盟側で揉め、清水の選手登録は開幕の3日前となる[5]が清水は開幕戦に先発。日本プロ野球2人目となる開幕戦初登板完封勝利を達成[6]。それを皮切りに、1年目から二桁の11勝(23敗)を挙げ、チームトップ(リーグ11位)となる防御率1.75を記録する。「三振か四球か」と言われた、荒れ球の豪速球とブレーキのあるカーブを駆使して活躍する[7]。この年の270奪三振はリーグ3位であったが、9イニング当たりの奪三振7.89個は2位以下を1個以上引き離して1位となっており、この奪三振率は戦前のプロ野球で2位の記録である。また同年には2度の毎回奪三振を記録しているが、通算かつ1シーズンで2度の達成は清水が日本プロ野球初[8]。同年11月16日、神戸市民球場での阪急戦においては、1試合15奪三振の戦前最多タイ記録を作っている(延長を含めれば17奪三振)[9]。なお、この年には一塁手としても56試合出場して規定打席に到達し、打者としてもチームトップ(リーグ19位)の打率.227を記録している。同年末に応召。1941年中国戦線中支で、小銃によりに対する貫通銃創を受ける[2]1942年に南海に復帰するが、銃創の後遺症によりスローカーブ主体の軟投派に転向した[7]

戦後の1946年には松江中学校(現松江北高校)を率いて夏の甲子園でベスト8に進出した。同年はグレートリングに所属していたが、7月に突如退団。10月に杉浦清の勧誘で中部日本へ入団し、プロ野球に復帰。1947年には自己最多となる23勝を挙げ、リーグ7位の防御率1.93記録。以降は肘を痛め、騙し騙しの投球となるが、1948年1949年の両年とも12勝を挙げて4年連続で二桁勝利を記録。チェンジオブペースを武器とし、その精度は若林忠志に次ぐと言われていた。1950年末に中日を退団。1952年からは大洋ホエールズでプレーし、1953年に通算100勝を達成して同年引退

引退後は調理師免許を取得し、米子市朝日町で飲食店を経営した。1964年3月23日に山陰労災病院にて死去。45歳没。
人物

役者のような顔立ちで女性に人気があった。甲子園に出場した際は、女性ファンが宿舎に押し寄せ、身動きが取れなくなる事もあった。女房役の井上親一郎が身を呈して追い払っていたという[10]。また、プロ入団後は遊び好きとしても有名になる。試合が終わると風呂に入ってから薄化粧をし、和服を着込み、夜の街に出発。帰ってくるのはいつも午前3、4時だった[11]

また、女性関連のエピソードで、千葉茂は清水について「あの顔だから、女性にはよくモテた。愚妻が清水の写真を見て『この人だれ!』と弾んだ声をあげたことがある。こんなことは後にも先にもこれ一度。


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