清水由貴子
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しみず ゆきこ
清水 由貴子
本名同じ
生年月日 (1959-09-07)
1959年9月7日
没年月日 (2009-04-20) 2009年4月20日(49歳没)
出生地 日本東京都台東区[1]
死没地 日本静岡県駿東郡
血液型A型
職業女優歌手タレント
活動期間1977年 - 2007年
主な作品
【レコード】
お元気ですか」「銀座の雨の物語
【TVドラマ】
花よめは16歳」「同心暁蘭之介」「噺家カミサン繁盛記」「幸福の明日
【CM】
味の素」「カルビー」「ヤクルト」「ライオン
【バラエティー】
欽ちゃんの週刊欽曜日」「それは秘密です!!」「ザ・スターボウリング
【映画・舞台】
「ランドセルゆれて」「売らいでか!」

 受賞
第3回日本テレビ音楽祭新人賞
第4回横浜音楽祭新人賞
第6回東京音楽祭国内大会優秀新人賞
第10回新宿音楽祭銅賞
第4回FNS歌謡祭優秀新人賞
第8回日本歌謡大賞新人賞

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清水 由貴子(しみず ゆきこ、本名同じ、1959年昭和34年〉9月7日 - 2009年平成21年〉4月20日)は、日本歌手女優タレントである。愛称は「ユッコ」。
来歴・人物
芸能界デビュー

東京都台東区出身[1]1976年2月18日(放映は同年3月14日)、NTVのオーディション番組『スター誕生!』の第16回決戦大会で、イルカのヒット曲『なごり雪』を歌唱。芸能プロダクション、レコード会社合わせて14社からスカウトのプラカードが上がる。同じこの決戦大会で合格し、後にピンク・レディーとなる根本美鶴代増田恵子の二人組をおさえて最優秀賞(グランドチャンピオン)となった。当時の「スター誕生!」の審査員で、デビュー曲の作詞も手がけた阿久悠によれば、テレビ予選に合格した時点で、既に次の決戦大会の大本命として、各社スカウトマンから注目されていた。

決戦大会後は日本テレビを交えた作戦会議が何度も開かれ、期待の新人として万全に万全を期す形で、合格から1年後の1977年3月1日に「お元気ですか」でCBS・ソニーから歌手デビュー。清水のキャッチフレーズは「ほほえみスイング まごころハミング」で、同じ1977年に女性アイドル歌手としてデビューを果たし、清水と仲の良かった榊原郁恵高田みづえと共に当時「フレッシュ3人娘」と称された。狩人荒木由美子なども同期。

後にソニーのプロデューサー酒井政利は「私は新人は自分で探すという自負心があったため、本来は『スター誕生!』とは距離を置いていましたが、山口百恵と清水由貴子だけは手がけてみたいと思えた」と語った[2]

『スター誕生!』で司会した萩本欽一も「同情とは別の部分で、その執念を理解した。立っているだけで哀愁を感じさせ、この子が有名になることで幸せになるなら後押ししたいと思った。それは、百恵ちゃんと清水由貴子の2人だけだったね……」と語る[3]

デビュー曲がヒットして当時盛んだった賞レースで多くの新人賞を獲得したが、『速報!日本レコード大賞』(TBS、1977年11月22日放送)の新人賞(5人枠)は、清水健太郎高田みづえ狩人の順で新人賞受賞が確定して上位2名の決選投票太川陽介に破れた後、最後の1枠を巡って榊原郁恵と再び決選投票となり、僅差で受賞しなかった[4]

翌年もシングルは順調に発売されたがヒット作品がなく、萩本欽一や同じレコード会社の杉良太郎の後押しもあって、次第に活躍の場をテレビドラマバラエティ番組に移した。歌手としてシングル10枚、アルバムを2枚発売した。1985年RCAレコードへ移籍し、単独名義は6年ぶりのシングル「いつか秋」が最後の発売となった。

萩本関連の番組に出演していることから「欽ちゃんファミリー」の1人として名前が挙げられることも多かった。80年代末から90年代前半にかけてオンエアされたヤクルトのCMでは、それまでのイメージとは違う気の強い母親役を演じ、トータルで十数本ものシリーズが制作された。本人の談によれば、このCMシリーズの中に登場した亀(息子役の幼稚園児のペット)がきっかけで、以後、自分でも亀グッズの収集を趣味にしていた。

90年代は情報番組のレポーターとしてのテレビ出演が増え、『徹子の部屋』に出演してレポーターの仕事で得た知識が自分の家を買うときに非常に役に立ったと語っている。この時期は、『噺家カミサン繁盛記』で主演、NHK朝の連続テレビ小説春よ、来い』のレギュラー、その他数多くの2時間ドラマに出演し、2000年に「フジテレビ、今世紀最後の昼ドラ」(制作は東海テレビ)と銘打った『幸福の明日』で、子供の取り違えに苦悩する主人公を演じて女優の幅を広げた。

以降は2度目となるNHK朝の連続テレビ小説『こころ』のレギュラーをはじめ、連続ドラマやシリーズドラマへのゲスト出演、映画『ランドセルゆれて』での主演等、中堅女優として順調に活躍したが、2006年に「母親の介護も兼ねてゆっくりしたい」と本人の希望でデビュー以来所属した芸映から独立する。

妹の著書によれば、この時点で母親の容態は白内障の手術がうまくいかず視力が低下していたことを除けば、少なくとも後に報道されたような深刻な状態ではなかった。目標に向けて突っ走る性格の姉[5]が、仕事を辞めることで気持ちのハリを失うことの方を心配し、事実上の引退には内心反対だったものの、仕事面では相応のポジションを得てきていた頃だっただけに、人一倍責任感が強い姉の「事務所に迷惑はかけられない」という決心を前に、とうとう言い出せなかったと語っている。

事務所独立後は、長年レギュラーを務めていた山梨放送の情報バラエティー番組『ともちゃん家の5時』(1999年10月 - 2010年3月)のみを残し、それ以外の仕事は引き受けずに芸能活動を続けていたが、2007年9月に番組のリニューアルで降板して芸能界から完全に引退した。
49歳で自殺

2009年4月21日に静岡県駿東郡小山町冨士霊園にある父親の墓前で、硫化水素が充満した黒いポリ袋を顔に被せて死亡した状態で発見された。死亡時刻は前日の20日午後5時頃と推定される。傍らに要介護の母親が車椅子に座った状態で残されて一時意識を失っていたが命に別状はなかった[6]

妹は夜勤のシフトのため、父親の墓参りへ出掛ける由貴子と母親に同行できず前日20日の日中に自宅玄関先で見送ったが、以後は姉の携帯電話へ何回かけても連絡が取れず、翌日の午前中に帰宅してもまだ帰宅しておらず不審に思い霊園へ問い合わせて発見された。霊園側から折り返しの連絡を受けて搬送先へ直行した妹と元・マネージャー[7]によって同日、本人と母親であることがそれぞれ確認された。

遺書に書かれていた「東京では葬儀をあげないで下さい」という本人の遺志通り、4月24日に同県御殿場市密葬が営まれ、相本久美子角川博櫻井淳子黒部幸英八波一起らが参列した。戒名は介護を続けた母への愛情に満ちた人生を意味する「慈孝由和清大姉(じこうゆうわせいだいし)」。25日に同所で葬儀・告別式が営まれ、親族や「欽ちゃんの週刊欽曜日」で共演した佐藤B作らも参列、当時弔問に訪れることができなかった萩本欽一からも供花が捧げられた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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