「清水とおる」、「清水徹」、「清水透」、あるいは「清水透 (歴史学者)」とは別人です。
清水澄
人物情報
生誕1868年9月27日(慶応4年8月12日)
日本 石川県金沢市
死没1947年(昭和22年)9月25日)
日本 静岡県熱海市
出身校東京帝国大学法科
学問
時代明治時代?昭和時代前期
研究分野憲法・行政法
研究機関学習院
慶應義塾大学
学位法学博士
影響を与えた人物大正天皇、昭和天皇
主な受賞歴勲一等旭日大綬章
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清水 澄(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:C水 澄、しみず とおる、1868年9月27日〈慶応4年8月12日〉 - 1947年〈昭和22年〉9月25日)は、日本の憲法学者。法学博士。栄典は正二位勲一等。
学習院教授、慶應義塾大学法学部教授を経て、行政裁判所長官、帝国美術院院長、枢密院議長を歴任した。帝国学士院会員。日本国憲法施行後に国体の危機を憂えて自殺した。 1884年(明治17年)、帝国大学法科大学仏法科首席卒業。その後、東京府・内務省勤務を経て、学習院教授。1898年から1901年までドイツとフランスに留学する。1905年(明治38年)、法学博士取得。次いで慶應義塾大学法学部教授(憲法・行政法担当)。1926年(大正15年)2月27日帝国学士院会員。 宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。行政裁判所長官、枢密院顧問官・副議長となった。 1935年(昭和10年)、文部大臣の松田源治が始めた帝国美術院改革を背景に、帝国美術院院長に就任。既に枢密院にいる法律畑の清水の就任は意外性を持って受け取られたが、1899年(明治31年)から2年間、学習院教授としてドイツ、フランスに留学した際、各国の古美術の保存に関する制度調査を嘱託されたこともあり、完全に門外漢という訳ではなかった[1]。 第二次世界大戦敗戦後、1946年(昭和21年)6月13日最後の枢密院議長に任ぜられる。 枢密院が廃止され、公職追放となり[2]、1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行された後の同年9月25日、日本の国体の危機を憂い、熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺を遂げた。墓所は青山霊園。 遺言に当たる「自決ノ辞」には、 新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團體及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戰爭責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ擇ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ と記し、大日本帝国憲法に殉じ、自殺をすることと、その自殺が中国の戦国時代の楚国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自決した故事に倣ったことが記されている。 国家総動員法の審議が第73回帝国議会で行われた際、「この法案は憲法違反とはいえない」という考えを示した。原田熊雄からこのことを聞いた西園寺公望は「清水なんかに憲法が判るもんか」とコメントしている[3]。
人物
元樞密院議長 八十翁 清水澄 法學博士 昭和二十二年五月 新憲法實施ノ日認ム
追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十數年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト從テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ從テ戰爭ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ