清水正孝
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しみず まさたか清水正孝

生誕 (1944-06-23) 1944年6月23日(76歳)
日本神奈川県横浜市
国籍 日本
出身校慶應義塾大学経済学部
職業実業家
活動期間1968 -
給料年収7,200万円(東電社長時代)[1]
任期東電社長(2008 - 2011)
電事連会長(2010 - 2011)
富士石油取締役(2012 - )
前任者勝俣恒久(東電社長)
森詳介(電事連会長)
後任者西沢俊夫(東電社長)
八木誠(電事連会長)
親勝俣恒久(義父)

清水 正孝(しみず まさたか、1944年6月23日 - )は、日本実業家であり、東京電力社長2008年6月 - 2011年6月)、同社顧問(2011年6月 - )。福島第一原子力発電所事故の当時の取締役社長である。2012年からは富士石油取締役を務めている。東京電力会長の勝俣恒久は義理の父親にあたる。目次

1 来歴

1.1 学生時代まで

1.2 新入社員時代

1.3 資材部配属以降

1.4 社長時代

1.5 福島第一原子力発電所事故


2 電気事業連合会の会長として

3 業績

4 その他役職

5 私生活

6 関連項目

7 脚注

来歴
学生時代まで

神奈川県横浜市出身。父は元東電マン[2]。『とうでん』2006年5月号からスタートした「役員の横顔」で初回に登場した際には「生粋の浜っ子」と自己紹介している。少年時代までの横浜は未開発地も多く、友達と野山を駆け回ったと言う。また、富岡(後金沢区)の岸壁の水深が5?6mあり、そこで水泳を覚えた。中学時代は軟式野球部に入りセカンドがポジションであった[3]栄光学園中学校・高等学校を卒業。

大学は慶應義塾大学経済学部に進んだ。学生運動期と被っているが、政治問題への関心は薄い「ノンポリ」だったという。家庭教師のアルバイトで金を溜め、全国を貧乏旅行した。当時から「単に利益を追い求めるだけの事業活動と言うよりも、社会の役に立てる分野の仕事に就きたいと思っていました。普段の講義やゼミも、福祉政策とか公益事業といった分野に関心がありました。」としている[3]
新入社員時代

1968年に同大学を卒業し、東京電力に入社する。最初の配属先は池袋支社で、1年後に品川支社、その後千葉支店営業所に転勤した。そのため検針、集金、お客様窓口対応、工事手配、資材の仕入れなどに強い印象が残ったと言う。当時清水自身も現場に出て、品川支社時代に街路灯の設置場所や本数が社内図面と不一致だった際には地元の町内会長と共に1本ずつ歩いて確認していった事もあるという。営業所時代には電柱の移設の仕事も経験し、工程管理をしないと新旧の電柱が長期間現地に立っている状態になるので気を使ったと言う[4]

検針・集金などの仕事を4年間担当後、横浜火力発電所に配属、当直三交替を経験、原子力発電所にも勤務しECCSの作動試験立会いの仕事に参加した[4]
資材部配属以降

1972年、本店の資材部配給課に異動し、後述する資材畑のキャリアが始まる。当時は芝浦千住越中島にあった配給所のほか、各支店、営業所にも資材倉庫が点在していたので期末の棚卸の際には現地に出向いて変圧器電線の管理状況も確認した。当時先輩から叩き込まれたことのひとつは「当社のように毎年膨大な設備を発注する会社はややもすると取引先に対して強い立場になってしまいますが、取引先企業は、電気事業の設備や業務を共に支えるパートナーであって発注者論理だけを押し出して応対してはならないということ」であったという。また資材部門に15年在籍した経験として「およそ資材取引の姿勢を見れば、その企業の健全性や公正性を読み取ることができる」と回顧している[5]

1983年福島第二原子力発電所の総務担当として赴任する。

1988年スーパーネットワークユーに出向する。まったく別分野の仕事にカルチャーショックの連続であった。

なお、時期は明示されていないが、東京南支店大田支社長も務めている[6]

1995年、資材部長に就任する[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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