清水峠
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この項目では、群馬県と新潟県の境にある峠について説明しています。その他の清水峠については「清水峠 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

清水峠
十五里尾根側から見た清水峠。小屋の奥に見えるのは朝日岳の稜線。
所在地群馬県みなかみ町新潟県南魚沼市
座標.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度53分40.0秒 東経138度56分51.0秒 / 北緯36.894444度 東経138.947500度 / 36.894444; 138.947500座標: 北緯36度53分40.0秒 東経138度56分51.0秒 / 北緯36.894444度 東経138.947500度 / 36.894444; 138.947500
標高1,448 m
山系谷川連峰
通過路国道291号
関越自動車道関越トンネル
上越線清水トンネル・新清水トンネル)
上越新幹線(大清水トンネル)

プロジェクト 地形
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清水峠(しみずとうげ)は、群馬県みなかみ町新潟県南魚沼市との境(上越国境)にある中央分水嶺を構成する三国山脈谷川連峰上にあり、標高は1,448 m
歴史

清水峠越えの道は、古くは「直越」(すぐごえ)・「直路」(すぐろ、じきろ)・「ゆのひそ越え」・「馬峠」[注 1]・「清水越」・「清水道」・「清水通」・「清水街道」・「清水往還」などと呼ばれ[1][2]、志水峠とも書いた[3]

山道の区間は長いものの上野国越後国とを結ぶ最短ルートであることから、遠回りながら標高が低い西側の三国峠とともに、古来よりよく利用されてきた。この道は上野国水上(現・みなかみ町)から越後国清水(現・南魚沼市)までの距離に因んで「十五里尾根」と呼ばれ、また越後の戦国大名上杉謙信によって軍事利用されたことから「謙信尾根」とも呼ばれ[注 2]、現在も新潟県側の登山道に名を残している。新田義貞らが治めた鎌倉時代南北朝時代は越後口の清水から馬峠(朝日岳の北側の鞍部)を越え、宝川を通って粟沢の寺林砦に至るルートが主に使われ[5]、戦国時代になってからは湯檜曽川を通るルートが主に使われた。七ツ小屋山から蓬峠を経て白樺尾根を下ることや、シシゴヤノ頭から大源太川に下るルート(謙信ゆかりの道)もあった。

天文21年(1552年)には上杉憲政関東から越後に逃れる際に通った[6]後北条氏と対峙した謙信は、天文年間に登川の源流(志水谷)にある清水口(現・南魚沼市清水集落)に直路城(清水城・志水城)を築いて防備に当たらせた。永禄5年(1562年)の制札に「直路」の記載がある。謙信の死後に起きた天正6年(1578年)の御館の乱の際には、上杉景勝が長尾伊賀守景忠に命じて直路の守りを固めた[7]。天正10年(1582年)6月13日には滝川益重の守る沼田城での戦いに敗れた藤田能登守信吉が越えた[7]慶長の頃には坂戸藩主の堀直寄から上杉遺民一揆に乗じた農民の脱走を防ぐため清水越の通行を禁じ、これを破ったものを打ち取ったものにはその者の持つ財宝を与えるという禁令が清水村百姓に向けて送られた(清水越の名称の初出)[8]

江戸時代には三国峠越えの三国街道の整備と合わせて、江戸幕府寛永9年(1632年)に湯檜曽と清水に口留番所を設置して通行を禁じ[2]、沼田城主が真田信吉の頃より江戸時代を通じた200年以上にわたって清水峠は特別な許可を得た地元の住民以外にはほとんど利用されない期間が続いた。ただし、明暦の頃に高田藩によって峠道の状態の調査が行われたほか、天保13年(1842年)に作られた越後国細見図には清水越の記載があり、「上州大穴村へ出る」とある。

江戸時代末期の天保の大飢饉のあと、当時津軽海峡関門海峡を通って江戸まで運ばれていた良質な年貢米である越後米の輸送(廻米)を陸路を通って短絡することで海路の危険を避け、品質を維持したまま流通させるため、勢多郡糸井村(現・利根郡昭和村)出身の石井与平治と江戸谷中の米商人・大川領平ら4名が天保15年(1844年)4月に清水峠の開削計画を奉行所に願い出た[9]。与平治らによって実地調査が行われ、その後も数度の願い出がなされたが、利益が相反する三国街道筋の宿場などから反対意見が出されたこともあって沙汰止みになった。嘉永6年(1853年)には黒船来航による海上封鎖を危惧した粟沢、綱子、藤原、湯檜曽の四ヶ村から同様の嘆願が行われたが、海上封鎖が行われなかったことや、幕末期の混乱もあって計画は実現しなかった[10]

明治時代に入り、1869年明治2年)1月20日の行政官布告によって関所が廃止されると(口留番所は前年の1868年慶応4年)5月17日の布告によって廃止済み)、清水峠越えの距離の短さが改めて注目され、江戸時代末期の開削運動が認知されていたこともあって、1870年(明治3年)には東京府の渡邊権大属らにより測量と一部工事が行われ、湯檜曽川沿いに歩道が作られた[11]。さらに、1872年(明治5年)に宿駅制度が廃止されると、翌1873年(明治6年)には熊谷県令の河瀬秀治により民間からの寄付金を財源として新道が計画され、1874年(明治7年)6月に着工し、同年10月に幅1間の新道が竣工した[3]。道の完成により旅客や荷物の取扱い個数量は数倍になったという。この工事は残された資料が乏しく詳細は不明であるが、わずか4カ月で作られた道ということで古道の改良と推測されており、この時点では登山道程度のものであった。維新以前の伝馬制度を引き継いだ陸運会社沼田分社によって真庭、上牧、小日向、湯原、湯檜曽に継立所が作られ、一ノ倉沢出合や武能沢出合、白樺尾根上部には休泊所が置かれた[4]1877年(明治10年)7月には、清水越往還が県道一等に指定された。

1878年(明治11年)、内務卿大久保利通が提唱した土木7大プロジェクトに唯一の陸路建設として清水越往還が取り上げられ、日本海側の国際貿易港として重要性を増した新潟港へ至る道として、馬車交通が可能な緩勾配・広幅員の道路に改修することが決定し、調査が開始された。1881年(明治14年)7月より工事が行われ、1885年(明治18年)8月に幅3の新道が完成した[3]


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