しみず ひろし
清水 宏
制作社『映画季刊』第5号(1949)より
生年月日 (1903-03-28) 1903年3月28日
没年月日 (1966-06-23) 1966年6月23日(63歳没)
出生地 日本・静岡県磐田郡山香村西渡
(現:浜松市天竜区)
死没地 日本・京都府京都市右京区北嵯峨
民族日本人
職業映画監督
ジャンル映画
活動期間1924年 - 1959年
配偶者あり
受賞
毎日映画コンクール
特別賞
1948年『蜂の巣の子供たち』
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清水 宏(しみず ひろし、1903年3月28日 - 1966年6月23日)は、大正・昭和期の映画監督。作為的な物語、セリフ、演技、演出を極力排除する実写的精神を大事にし、「役者なんかものをいう小道具」という言葉を残している。 1903年3月28日、静岡県磐田郡山香村西渡にある母の実家で生まれる。両親が不仲だった為、天竜川の上流にある母の実家で祖父に育てられる。父は古河鉱業の社員、母は山村で林業を営む大地主の大橋家の娘と言われている。遠縁に松竹ヌーヴェル・ヴァーグの編集者の浦岡敬一がいる。 村の小学生の頃から腕白で成績が悪く、その為に東京市芝区浜松町に住む父親のもとに引き取られる。1910年、芝区桜川町の神明小学校の2年に編入、同級生に映画監督の滝沢英輔、前進座の俳優の河原崎長十郎がいて、清水は餓鬼大将だったという。 父の希望で浜松の中学校に入り、在学中は水泳部の選手だったが、悪友たちと賽銭泥棒や芸者遊びに興じており、部活動はおろか全く勉学はしていないと発言している。卒業後の1920年、清水本人によれば、北海道大学農学部に入学[1]したとの発言が確認できるが、学業が退屈と言う理由で1年で中退したという。しかし、当時の映画関係者には、この学歴を疑う意見が多くある。 帰京後の1921年、浅草で映写技師の生活をする。国活角筈撮影所の撮影技師、鈴木照夫の紹介で原田三夫の助手となる。科学雑誌の分野を開拓した原田三夫は、科学教育を目的に映画製作を始めた頃だった。 1922年、原田の「学芸活動写真社」は解散、清水は鎌倉名越に移った原田の住み込み助手となる。 1922年11月頃、父の在米時代の知人有島武郎の玄関番をつとめていた関係から、小山内薫に紹介され、栗島すみ子の口利きで松竹蒲田撮影所に入社[2]。池田義信監督に助手として付くが、先輩の助監督に成瀬巳喜男がいた。翌1923年、小津安二郎が松竹に入社し、清水と小津は終生の親友となる。関東大震災のため、蒲田のスタッフは、1923年の下半期は京都に移る。 1924年6月、蔦見丈夫
生涯
松竹蒲田入社まで
松竹蒲田時代
1924年9月、前蒲田撮影所長の野村芳亭の京都行きに従って、柳さく子、大久保忠素らと下加茂撮影所に移った。下加茂に入社したばかりだった田中絹代が、清水の監督した『村の牧場
』(1924年)で主演デビューを果たし、その後、田中絹代と恋に落ちて結婚しようとする[3]。スター女優になりかけていた田中絹代と公に結婚という訳にいかず、城戸四郎撮影所長から「試験結婚」を勧められて1927年に同棲するが、喧嘩が絶えず、1929年に破局した。1930年、清水は伊豆下田の名妓と結婚するが、子どもはなく養女を迎えている[4]。仕事面においては、1925年7月に蒲田に復帰し、若きメロドラマ作者として将来を嘱望された。作品歴においては、メロドラマのほか、流行した新聞小説の映画化、旅芸人や放浪者など旅する人々を描いた小さな物語、ペーソスのあるコメディなど多様な作品を量産して精力的に働いた。松竹一の早撮りの多作家となり、デビュー10年目にして既に100作品近くの映画を監督した。撮影所入社以来、多忙をきわめ、当時、「急がされると良いものができる」とまで言われた。小津安二郎-伏見晁-清水宏-野田高梧-1928
元号が昭和となった頃、親友の小津安二郎とともに、1930年代のソフィスティケートされた松竹蒲田のモダニズムを担った。清水と小津は年齢が同じで、二人ともやんちゃでモダンボーイだった。この時期の清水のスマートで都会的なモダニズムの代表作に、北村小松脚本で岡田時彦と及川道子が主演した『恋愛第一課』(1930年)などがある。
1930年代初め、流行新聞小説を映画化したメロドラマで商業的に成功したため、若手監督として撮影所長の城戸四郎からフレッシュさを認められ、手際のいい商業映画の監督として重宝がられた。