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しみず だいけい
清水 大敬
生年月日 (1948-04-20) 1948年4月20日(76歳)
出生地 日本・兵庫県洲本市
職業映画監督、脚本家、俳優、AV男優
ジャンル映画
活動内容1976年 映画俳優デビュー
1996年 映画監督デビュー
受賞
第6回、第7回ピンク大賞主演男優賞(1994年、1995年)
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清水 大敬(しみず だいけい、本名:清水 昇、1948年4月20日 - )は、日本の映画監督・俳優・AV監督・AV男優・脚本家。兵庫県洲本市出身。明治大学文学部演劇学科専攻卒業[1]。 高校時代に演劇を始め、本格的に役者を目指す目的で、1967年に明治大学演劇学科に入学。 大学卒業後、賀原夏子率いる劇団NLTの研究所に入り、1年後には研究生として仮採用される。以後、清水 のぼるの名義で舞台を中心に活躍。 また、映画・テレビドラマへの出演も多く、『大空のサムライ』(1976年)、『悪魔の手毬歌』『祭ばやしが聞こえる』(1977年)などに脇役で出演した。 しかし、当時のNLTでは研究生として5年間経過すると基本的に準劇団員に昇格して本採用扱いとなるのが普通だったのだが、清水は「劇団の裏方などの仕事をやらない」「自分勝手」などの理由で準劇団員への昇格を見送られてしまう。清水曰く「他の研究生は実家通いで親の脛をかじれたのに対し、自分は一人暮らしでバイトを掛け持ちせねば活動できず、あまり劇団員同士の人付き合いをしてこなかった」ことが背景にあるという[2]。ただ賀原からの評価は高かったため、本来なら「昇格見送り=即退団」となるはずのところ、特例として研究生のまま在籍を続けることを許された[2]。 1980年公開の黒澤明監督の映画『影武者』では、NLTを退団しフリーの身分でオーディションに挑戦。約1万5000人の狭き門をくぐり原昌胤役に抜擢された。しかし乗馬訓練中に落馬し骨折[1]。体を痛めつつも撮影に臨んだ無理がたたり、その後遺症で入退院を繰り返す[3]。本人によると『影武者』のおかげで仕事がどんどん入り役者としてこれからというときだったのに、事故の後遺症で全て水の泡になり、精神的にも相当落ち込んだとのこと。 その後『瀬戸内少年野球団』(1983年)などの映画に出演したが次第に仕事が少なくなる。この頃自ら劇団「ザ・スラップスティック」を立ちあげ、本格的に喜劇の道を目指し始めるが、運営が伸び悩み資金に悩んでいた。そんな折に知人からピンク映画の仕事を紹介され、このままくすぶっていても仕方がないと一念発起する。当初はピンク映画では「石部金吉」の名義を使いつつ、本名で一般作にも出演する形だったが[4]、1980年代後半に本格的にAV男優に転向したのを機に現在の名義に改名した。 1991年には「コーヒーはおかわりできるが、人生はおかわりできないんだぞ」と、不良少女に説教する学校の先生役でミスタードーナツのCMにも出演した。 近年はピンク映画監督業・AV監督業・脚本家業をメインに活動中。また「ザ・スラップスティック」の座長としても定期的な公演を再開しており、喜劇役者の道に回帰する動きも見られる。 普段の清水は武骨ながら温厚な性格で、「妻子と一緒に過ごすのが一番の楽しみ」と語る愛妻家で子煩悩な家庭人でもある。そのため後に「AV男優として売れていても世間からは白眼視されるばかりでいい事はあまりなかった」とも語っている。 超がつくほどのアナログ派で、現在もパソコンや電子メールは一切使わない。そのため出演依頼や関係者への相談などは全て電話か手紙によるという[4]。 本人はAV男優に転向した理由として「入退院を繰り返したことで蓄えを食いつぶし生活が困窮していたこと」「家族にこれ以上迷惑はかけられないし一家の主として家族を養っていかなければならないと思ったこと」を挙げている。実際AVの中でも態度の悪いAV女優に対して「お前は小遣い稼ぎの軽いアルバイトかも知れないが、俺は養わなければならない家族がいるんだ」と説教を始めることもしばしばあった。 AV男優に転身してからは、不器用でモテるタイプではない自らの資質を開き直って前面に出し、腹が出たメガネ姿の中年男性の容貌とサディスティックなカラミで注目される存在になる。得意技はAV女優に自分の唾液を飲ませるタン壷キス、AV女優の上にまたがり激しいピストン運動、最後はAV女優に口を開けさせ口内発射を行い精液を飲ませる。その上言葉でなぶりとことん精神的に追い詰めるねちっこい演出を得意としていた。
来歴
人物
AV男優として
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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