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清水 喜助(しみず きすけ)は、清水建設の創業者と、その婿養子が名乗った名である。
初代清水喜助)の豊かな農家の長男に生まれた。1804年(文化元年)、21歳のとき、神田鍛冶町の絵草紙屋の裏店を住居にし、大工職として江戸での第一歩を踏み出した(この年を清水建設では創業の年と定めている)。その後、「清水屋」の屋号で、神田新石町(現・内神田三丁目)の表通りに店をだす。丹後宮津藩本庄家の御用達大工となり、1838年(天保9年)には、江戸幕府の命により江戸城西ノ丸造営の一工区を請け負う。それ以来、彦根藩井伊家、佐賀藩鍋島家の御用達も務める。このとき喜助は越中から呼び寄せた弟子の藤沢清七とともに御用を務めた。後に喜助は、清七の腕と働きぶりを見込んで彼を長女ヤスの婿養子に迎える。喜助が一介の職人から幕府御用を務めるまでに出世したその経緯について詳しい資料はないが、清水屋は世間から信用され、喜助と清七は確かな仕事ぶりでそれにこたえ、商売の基礎を固めていった。1849年(嘉永2年)には、江戸・牛込の高田八幡宮隨身門の工事を完成。
こうした実績を重ねつつ、喜助は神祇伯白川神道の門人神拝次第を伝授され、「日向」の国名を名乗ることと、上棟式には風折烏帽子に祭事用装束の着用が認められた。つづいて1851年(嘉永4年)には、上野輪王寺宮から「出雲」の国名と熨斗目の着用、非常時には帯刀を許されるまで出世した。1858年(安政5年)、200年以上に及ぶ長い鎖国が解かれ、幕府はその翌年に神奈川、長崎、箱館を開港。喜助は経営者として時代の転換をとらえ、素早く開港場建設に参加した。当時、小さな漁村であった横浜は役所や役宅、商人たちの事務所や店舗などの建設ラッシュに沸いており、喜助は横浜坂下町にも支店を構え、清七にこの店を任せた。喜助は老齢であったが、仕事に注ぐ情熱は衰えず、江戸と横浜を頻繁に往復した。1859年(安政6年)5月、喜助はある外国関係の工事の遅れを取り戻すため、早朝、早駕籠で江戸を出発。しかし途中で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。墓所は谷中霊園。 二代 清水 喜助清矩 (1815年(文化12年)11月 - 1881年(明治14年)8月9日) 二代清水喜助となる藤沢清七は、越中国礪波郡井波(現・富山県南砺市井波)出身である。初代喜助の生誕地である小羽と井波は直線にして20kmという至近距離にあり井波は宮大工輩出の地として知られていた。清七は小間物商の子として生まれたが、幼少の頃から社寺建築に親しみ、やがては大工を天職と決め、天保年間に初代喜助を頼って江戸にでた。初代喜助は江戸城西ノ丸の造営に参加するにあたり、22歳の清七を引き連れている。清七は、西ノ丸の造営に参加した翌年、初代喜助に認められ、長女ヤスの婿として迎えられた。その後、43歳の時に、清七が二代を継ぎ、清水喜助清矩を名乗った[1]。 二代喜助は、開港の翌々年にあたる1861年(文久元年)に神奈川役所定式普請兼入札引受人に指名された。1862年にデント商会の代理人を務めるロレイロの事務所兼住宅を施工した。外国人技術者の下で働くようになり、ブリジェンスやウィットフィールドなどから西洋建築を学ぶようになった。
主な作品
高田八幡宮随身門(1849年) - 1945年戦災消失。入母屋造、重層、三間一戸楼門。
二代 清水喜助清矩
生誕藤沢 清七
1815年11月
越中国礪波郡井波
死没1881年8月9日
墓地谷中霊園
国籍 日本
職業大工、事業家
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