清水一行
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ペンネーム清水 一行(しみず いっこう)
誕生清水 和幸(しみず かずゆき)
1931年1月12日
日本
東京府南葛飾郡吾嬬町
(現在の東京都墨田区八広
死没 (2010-03-15) 2010年3月15日(79歳没)
日本 東京都
職業小説家
最終学歴早稲田大学法学部中退
活動期間1966年 - 2010年
ジャンル経済小説
主題日本企業の実態
刑事事件の内幕
代表作『小説兜町』(1966年)
動脈列島』(1974年)
器に非ず』(1988年)
主な受賞歴日本推理作家協会賞(1975年)
デビュー作『小説兜町』(1966年)
子供清水草一
親族竹内由恵竹内太郎(孫)
影響を受けたもの

カール・マルクス

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清水 一行(しみず いっこう、1931年1月12日 - 2010年3月15日)は、日本小説家。本名:清水和幸(しみず・かずゆき)。

実際に起きた経済事件に関わった実在の人物をモデルに、企業の実態や事件の内幕を描く作風を確立した[1]高杉良城山三郎らと並ぶ経済小説の第一人者として知られる[1]。息子に自動車評論家清水草一、孫に元テレビ朝日アナウンサー竹内由恵、元俳優の竹内太郎がいる。
経歴
生い立ち

東京府南葛飾郡吾嬬町(現在の東京都墨田区八広)の2階屋が4軒続く長屋で、大工の次男として生まれた[2]。父は忠助、母ははな[2]。清水が生まれた吾嬬町は、『玉の井』と呼ばれる私娼街(娼家が密集している地域)の南側に隣接していた[2]

母はなは夫の忠助が花札ばくちばかりして稼ぎが悪いので、そばと酒の屋台を出した[3]右の少年が清水

3歳の頃に長野県小県郡滋野村(現東御市)に住む叔母に引き取られる[4]。清水の下に妹ができ、母はなは、妹を背中にくくりつけ、清水と兄を屋台の下の籠の中に入れて、お歯黒どぶのそばで商売を続けていたが、さすがに3人を育てながらでは身体がもたなくなった[4]。そして、清水が間引きされるような形で信州に行くことになった[4]

1936年8月に母のはなが、4人目の子どもを流産し、自身も命を落とした[5]。清水は「自分はもう東京に帰ることなく、ずっと滋野村の人間として暮らすのだろう」と考えた[5]。しかし父の忠助が茨城県出身の女性と再婚し、1939年に8歳になっていた清水を吾嬬町(1932年に向島区に編入)の長屋に呼び戻した[5]
学生時代

墨田区立更正小学校に入学[6]。当初、滋野村の方言が抜けず学校でいじめられたりして苦労した[6]。更正小学校を卒業すると岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)に入学[7]

早稲田大学法律学科中退[8]
労働運動

敗戦とともに、それまで禁じられていた共産主義が知識人、労働者、学生などの間に広っていった[9]。清水も自然と共産主義に興味を持つようになった[9]。青年共産同盟に入り、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』や『資本論』を勉強したり、赤旗をかついでデモに参加するようになった[9]

清水は父親の忠助と激しい口論をした[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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