清水トンネル
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この項目では、群馬県と新潟県を通る鉄道トンネルについて説明しています。台湾花蓮県を通る鉄道および道路トンネルについては「清水トンネル (北廻線)(中国語版)」を、その他の同名のトンネルについては「清水トンネル (曖昧さ回避)(中国語版)」をご覧ください。
地図赤.清水トンネル、桃.新清水トンネル、青.大清水トンネル

清水トンネル(しみずトンネル)は、上越線群馬県新潟県の間にあるトンネル。名称は付近にある清水峠にちなむ。

在来線である上越線はおのおの単線の清水トンネル、新清水トンネル(しんしみずトンネル)の2本があり、上越新幹線用の複線の大清水トンネル(だいしみずトンネル)と合わせて合計3本が並行している。

清水トンネル - 1922年着工、1931年9月1日開通。全長9,702m[1]

新清水トンネル - 1963年着工、1967年9月28日開通。全長13,500m[1]

大清水トンネル - 1979年完成、1982年11月15日開通。全長22,221m。

本稿では主に清水トンネルについて記載し、新清水トンネルと大清水トンネル、および清水トンネル内に存在した茂倉信号場についても記述する。
清水トンネル

清水トンネル
概要
路線上越線
位置群馬県新潟県
現況供用中
起点新潟県南魚沼郡湯沢町
終点群馬県利根郡みなかみ町
運用
建設開始1922年(大正11年)
開通1931年(昭和6年)9月1日
所有 東日本旅客鉄道(JR東日本)
通行対象鉄道車両
技術情報
全長9,702m(上り線専用)
軌道数1(単線
軌間1,067mm
電化の有無有 (直流1500V
高さ6,012mm (施工基面上)
幅4,877mm
勾配2.5‰
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トンネル開通前

清水トンネルができる前の関東地区新潟を結ぶ鉄道は、高崎から碓氷峠を越えて長野直江津経由となっていた。よってこれが長野県(信濃)・新潟県(越後)へ行くメインルートで、信越本線と呼ばれていた。距離が長く、途中に難所の碓氷峠もあり、関東と新潟の往来は非常に不便であった。1914年大正3年)には磐越西線が全通し、東北本線と同線を使用して向かうこともできるようになったが、いずれにしろ遠回りであることに変わりはなかった。
トンネル工事

群馬県の水上から新潟県の越後中里まで、その間にそびえる谷川岳の中腹を貫いて、7つの単線トンネルが掘削された。谷川岳の山体は硬い閃緑岩ではあったが、総体としての工事自体は丹那トンネルのような悪戦苦闘の難工事ではなかった[注 1]。群馬側・新潟側の両方にループ線を設置して高度を稼ぎ、土合駅土樽駅間の本トンネル(清水トンネル)の長さをできるだけ短縮した。

当時は「清水隧道」とも呼ばれた。完成時には鉄道長大トンネルとしては東洋一、世界でも第9位の長さであった[2]

測量開始は1919年(大正8年)6月、地形気候に苦しめられながら足かけ3年の月日をかけて1921年(大正10年)の秋に測量が完了した。

工事の着手は高崎口が1922年(大正11年)8月18日、長岡口は1923年(大正12年)10月6日。導抗貫通は1929年(昭和4年)12月29日、トンネル本体の工事が完了したのは1931年(昭和6年)3月14日。

工事は鉄道省直轄事業とされ、工事費は総額11,725,000円。工事中の公務死傷者は高崎口で死亡者21人、重軽傷者1916人。長岡口で死亡者27人、重軽傷者804人。両口併せて死亡者(殉職者)48人、重軽傷者2,720人であった[3]

慰霊碑として旧湯檜曽駅跡地に上越南線殉死者供養塔が、土樽駅までの線路の傍らに上越北線殉職碑がある。

工事のため南側は沼田から土合まで、北側は越後湯沢から土樽まで軽便鉄道が敷かれた。

土樽信号場(当時)近傍には工事期間中の職員とその家族のための官舎職人のための長屋合宿所などが立ち並び、小学校分校診療所ができるなど、一つの集落として栄えた。
開通後の状況

新潟と上野の間が路線距離にして98 km短縮されたうえ、碓氷峠の難所を通らずに済む効果で、到着時間の短縮幅は約4時間に達した。その結果、新潟地区と首都圏の交通事情が飛躍的に改善された。

なお、上越線の清水トンネルを挟む水上駅 - 石打駅間は1931年昭和6年)の開業当時から直流電化され、電気機関車国鉄ED16形電気機関車)が使用されていた[注 2]。これは、蒸気機関車を使用して長大な清水トンネルを越えることは、機関士機関助士が、煤煙によって窒息事故を起こすため不可能だったからである。なお気動車による列車に関しては、上越線の全線電化が早かったこともあって数は少なかったが、戦後になって非電化羽越本線只見線に直通する列車(特急「いなほ」、急行「鳥海」「奥只見」)を中心にいくつか生まれている。

またこの県境の長大なトンネルは、さまざまな点から注目を集めた。開通後、川端康成越後湯沢(湯沢町)を訪れるようになり、その経験を元に1935年(昭和10年)から執筆されたのが文学作品『雪国』である。後には岩波書店発行の文庫のあとがきで「雪国の場所は越後の湯沢温泉である」と書いた[4]こともあって、小説冒頭の「国境の長いトンネル」が、完成したばかりの清水トンネルと一般に解されている[5]

一方、戦前国定教科書である第4期『小學國語讀本』(通称:サクラ読本。全12巻、1933年〈昭和8年〉から使用開始)の第8巻末には「C水トンネル」として、3月に関東平野を走る汽車が清水トンネルを抜けて越後へ向かう様子が描かれている。作家の宮脇俊三はこの国定教科書で国語を習ったため、1937年(昭和12年)に小学4年の3学期の授業で「C水トンネル」を見て同トンネルの虜になったという。宮脇は、同年夏に母と嫁ぎ先が新潟に転勤となった姉の元へ行くため、急行列車で清水トンネルを通ったときの様子を『時刻表昭和史』でつづっている。その他、群馬県の郷土カルタ「上毛かるた」にも、「ループで名高い清水トンネル」と詠まれている。

また、トンネルの上にそびえる谷川岳は、トンネルの開通により首都圏から手軽に行ける本格的山岳として登山者に大人気となったが、冬の雪の多さと岩壁の厳しさから多くの遭難者を出し、「魔の山」と呼ばれるようになった。


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