清水エスパルス
原語表記清水エスパルス
愛称エスパ
クラブカラー エスパルスオレンジ[1]
ディープシーブルー[2]
創設年1991年
所属リーグ日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョンJ2リーグ
クラブライセンスJ1
ホームタウン静岡県静岡市[1]
ホームスタジアムIAIスタジアム日本平[1]
収容人数19,496[1]
運営法人株式会社エスパルス[1]
代表者 山室晋也[1]
監督 秋葉忠宏
公式サイト公式サイト
ホームカラーアウェイカラーサードカラー
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ
株式会社エスパルス
S-PULSE CO., LTD.[3]
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
〒424-0901[1]
静岡県静岡市清水区三保2695-1[1]
設立1998年2月
業種サービス業
法人番号5080001008261
事業内容サッカークラブの運営
代表者山室晋也
資本金5億5,500万円 (2018年1月期)[3][4]
売上高45億4500万円
(2021年04月27日時点)[5]
営業利益100万円
(2020年01月31日時点)[5]
経常利益1600万円
(2020年01月31日時点)[5]
純利益1200万円
(2023年01月31日時点)[6]
純資産8700万円
(2023年01月31日時点)[6]
総資産12億4900万円
(2023年01月31日時点)[6]
決算期1月期
主要株主鈴与、静岡鉄道、静岡ガス、静岡新聞社、
小糸製作所、中部電力、静岡ビルサービス、
J-オイルミルズ、静岡朝日テレビ、ヤマシタ
コーポレーション、鈴与建設、清水銀行、
清水綜合リース、清水信用保証、清水地域
経済研究センター[3]
外部リンクhttps://www.s-pulse.co.jp/
特記事項:1998年1月7日にサッカーコミュニケーションズ株式会社から商号変更。1998年2月1日、株式会社エスラップ・コミュニケーションズより営業権を譲受[3]。
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清水エスパルス(しみずエスパルス、英: Shimizu S-Pulse)は、日本の静岡県静岡市をホームタウンとする[1]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。 1993年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市(合併前は清水市)[1]。ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平[1]、練習場はエスパルス三保グラウンド[1](詳細は#スタジアム・練習場を参照)。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する[1]。1993年のJリーグ開幕を戦った10クラブの中では唯一母体となるクラブが実業団ではなく、かつ日本サッカーリーグ (JSL) に加盟していないクラブである。発足時の運営会社は株式会社エスラップ・コミュニケーションズ、1998年2月1日以降は株式会社エスパルス。 クラブマスコットは、パルちゃん(名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)[1]、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生した[7] ピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示す星より)[1]、パルちゃんの妹的な存在に当たる[8] こパルちゃん[1] である。パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ[8]、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されている[7]。 1956年、清水市立江尻小学校に新人教師として赴任した堀田哲爾によって児童へのサッカー指導が始まり、1967年には清水市で全国初の小学生リーグが結成、国内初となる指導者育成の学校「コーチング・スクール」が誕生、サッカー育成の制度が確立されていた[9]。選抜チームのオール清水(清水FC)はJFA全日本U-12サッカー選手権大会にて優勝8回を数え[10]、高校選手権では市内の学校(清水東・清水商・東海大一)が1980年から1988年の間に7度決勝進出(うち優勝4回)を重ね[11]、多数のサッカー選手を輩出している地域であった。 また、1991年には静岡県で行われた高校総体サッカー競技のメイン会場として、日本平運動公園球技場が完成。開場当時日本では1万人収容の専用スタジアムは例がなく、プロリーグでの使用にも十分に耐えられるものと考えられた。[12] Jリーグ発足に際し、プロリーグへの参加条件に従来の企業スポーツからの脱却を図り、地域に根ざした欧州のクラブ組織を理想とした「フランチャイズ制の確立」が掲げられるなか[13]、Jリーグの理念を体現し、「プロサッカーチームを大きく育てるホームタウンがあるとしたら、清水以上の候補地はない」と評価され、清水に本拠地を置く静岡県社会人サッカーリーグ所属の「清水FC」が初年度の参加チームとして選抜された[14]。チームカラーは清水FC伝統のマリンブルーが有力視されたが、10クラブ中6クラブが青を希望したため、静岡の特産物である「みかん」などをイメージしたオレンジに決定[15]。 5月、清水FCの運営企業として、テレビ静岡をはじめとして中日新聞東海本社、フジテレビジョンなどが出資、市民からも1割の持株を募り、株式会社エスラップ・コミュニケーションズを設立。チーム名を清水FCエスパルスと定め、企業チームとの差別化を図った。初代監督にはエスピノーザが就任。クラブ創設に伴い、堀池巧、大榎克己、長谷川健太の“清水東三羽烏”をはじめ、澤登正朗を獲得[16]。読売クラブから前述の堀池、トニーニョ、三浦泰年(初代キャプテン)を引き抜きに成功、更に三浦知良の加入も内定していたが、加入は実現しなかった[17]。 6月、エスピノーザに代わりエメルソン・レオンが監督に就任。7月4日には長居陸上競技場にてガンバ大阪とのプレシーズンマッチが開催された。クラブでは初試合となったこの日を「エスパルスの誕生日」としている[18]。1992Jリーグヤマザキナビスコカップでは準優勝を果たしている。 この年から清水日本平運動公園球技場(現在のIAIスタジアム日本平)をホームスタジアムとして使用し始める。 5月15日、Jリーグ開幕。翌16日の三ツ沢球技場で開催された横浜フリューゲルスとの試合が開幕戦となった。1stステージは10チーム中4位と健闘。2ndステージからDFの加藤久、第2節からGKシジマールが加入すると、第3節から6戦連続無失点で6連勝を果たし、一時は首位に立つなど快進撃を見せた。2ndステージは14勝4敗で2位となり、1993Jリーグヤマザキナビスコカップの準優勝、天皇杯のベスト4進出と好成績を収めた。 1stステージは第5節から9連勝を達成、一時首位を走ったものの、国立での鹿島戦を境に失速、2位に終わった。FIFAワールドカップアメリカ大会にロナウド選手がブラジル代表として出場。クラブ所属選手では初のW杯出場となった。1stステージ終了後、エメルソン・レオンが選手と賄賂を行っていたことが発覚し、解任。後任の監督にロベルト・リベリーノが就任したものの、2ndステージは6位で終了。 元鹿島アントラーズ監督、宮本征勝が監督に就任。チーム初の日本人監督となった。1stステージはリーグワーストの63失点を喫し14チーム中12位に終わる。2ndステージから、元イタリア代表FWダニエレ・マッサーロが加入。また鹿島から吉田康弘, サントス, 森岡隆三が加入、中盤まで優勝争いを演じた。また、日本クラブユースサッカー選手権(U-15)大会でジュニアユースチームが初優勝を果たし、クラブ初のタイトルを獲得した。天皇杯では、ヴィッセル神戸に敗北した。シーズン終了後、宮本が監督を退任。 監督にオズワルド・アルディレス、ヘッドコーチにスティーブ・ペリマンが就任。9月25日、1996JリーグヤマザキナビスコカップにてPK戦の末に優勝。トップチームが悲願の初タイトルを獲得した。また、この年開催されたアトランタ五輪では伊東輝悦、白井博幸、松原良香がメンバー入り、伊東はブラジル戦で決勝のゴールを決めている。
概要
歴史
クラブ発足の経緯
1991年?1992年(静岡県リーグ)
1991年
1992年
1993年?1998年(Jリーグ)
1994年
1995年
1996年
1997年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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