同名の講談・浪曲および、関連作品については「清水次郎長 (講談)」をご覧ください。
しみずの じろちょう
清水 次郎長
『幕末・明治・大正回顧八十年史. 第8輯』(1935)
生誕高木 長五郎(たかぎ ちょうごろう)
文政3年1月1日(1820年2月14日)
日本 駿河国有渡郡清水美濃輪町(現在の静岡県静岡市清水区美濃輪町)
死没 (1893-06-12) 1893年6月12日(73歳没)
墓地梅蔭禅寺
清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日〈1820年2月14日〉- 明治26年〈1893年〉6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。本名は山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。米問屋・山本次郎八の養子。
養家が没落したことで博徒になり、やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもった。戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた咸臨丸(榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の旗艦)の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、次郎長のこの義侠心に深く感動した幕臣の山岡鉄舟と知り合い、旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍した[1]。
のち、「次郎長伯山」と異名をとった三代目神田伯山の講談で「海道一の親分」として取り上げられたことから名が広まり、二代目広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、村上元三の『次郎長三国志』などの小説のほか、映画・テレビドラマの題材として多く取り上げられ、人気を博する。これらの作品群では大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。
生涯
出生から清水一家結成清水次郎長生家(2023年10月)
文政3年(1820年)、駿河国有渡郡清水美濃輪町(現在の静岡県静岡市清水区美濃輪町)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれる。母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主・山本次郎八は実子がなく、次郎八の養子となった。幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼び、長じてからもそう呼称されることになったという。
清水港は富士川舟運を通じて信濃・甲斐方面の年貢米を江戸へ輸送する廻米を行っており、清水湊の廻船業者は口銭徴収を主とする特権的業者が主であったが、次郎長の生まれた美濃輪町は清水湊(清水港)における新開地で、父の三右衛門は自ら商品を輸送する海運業者であった。また、叔父の次郎八は米穀仲買の株を持つ商人であることからも、三右衛門は次郎八を通じて米穀を輸送していたと考えられている[2]。
養父の次郎八は天保6年(1835年)に死去し、次郎長は甲田屋の主人となる。次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返しており、天保14年(1843年)、喧嘩の果てに人を斬ると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。この時代の次郎長の事跡については明治初期に養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』に詳しい[3]。 弘化2年(1845年)には甲斐国鴨狩津向村(市川三郷町)の津向文吉と次郎長の叔父・和田島太右衛門の間で出入りが発生し、次郎長はこれを調停している。弘化4年(1847年)には江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、一家を構える。 安政5年(1858年)12月29日には甲州における出入りにおいて役人に追われ、逃亡先の尾張国名古屋で保下田久六の裏切りに遭い、女房のおちょうを失う。安政6年(1859年)には尾張知多亀崎乙川において久六を殺害する。同年9月16日には下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲する。 文久元年(1861年)1月15日には駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。同年10月には菊川において下田金平と手打ちを行う。文久3年(1863年)5月10日には天竜川において甲斐国の黒駒勝蔵と対陣する。 元治元年(1864年)6月5日には三河国の平井亀吉に匿われていた勝蔵を形原斧八とともに襲撃する。平井の役では勝蔵の子分、大岩、小岩が殺されたとされる。平井亀吉は役人から逃れるために旅に出るが尾張藩からスカウトされ、ヤクザ部隊の集義隊に加わった。
博徒間抗争
明治維新期の活動から晩年咸臨丸山岡鉄舟