清教徒革命
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ピューリタン革命
ネイズビーの戦い後の風景(1645年)
種類市民革命
目的王権の制限、カトリック勢力の排除
対象絶対王政、カトリック勢力
結果絶対王政の打倒。議会制民主主義の優位。アイルランド再征服
発生現場 イングランド
スコットランド
アイルランド

ピューリタン革命または清教徒革命(ピューリタンかくめい/せいきょうとかくめい、英語:Wars of the Three Kingdoms 、直訳:Puritan Revolution)は、狭義には1642年から1649年にかけてイングランドスコットランドアイルランドで起きた内戦革命である。

広義には1639年主教戦争から1660年王政復古までを含み、「三王国戦争(Wars of the Three Kingdoms)」「大反乱」「英国内乱(British Civil Wars)」もしくは名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれる。革命中に起きた諸事件については清教徒革命の年表も併せて参照
概要

ステュアート朝時代のイングランド王国はイングランド国教会プロテスタント)による王の絶対主義によって維持されつつも富を得て上昇する者と没落する者とが錯綜し、絶対主義の確立されたテューダー朝時代とは、社会の仕組みが大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝時代における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝時代に由来している)。三十年戦争では、1624年フランスの呼びかけに応じてデンマーク=ノルウェー対ハプスブルク同盟へ引き込む為に資金を提供した結果、王室は財政難に苦しむことになった。

しかし、1625年にイングランドとスコットランドの王位を継承したチャールズ1世は、変化に対応する能力に欠けており、王権神授説にもとづき議会と対立し、大陸の戦火がイングランドにも及ぶことになった。イングランド内戦は、1641年のアイルランドのカトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立したアイルランド反乱(英語版)(アイルランド同盟戦争(英語版)の発端)から始まった。翌1642年にイングランドでも王と議会の対立から第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)が始まった。スコットランドでも二次にわたる主教戦争を経て1644年国民盟約盟約派)と国王派の間でスコットランド内戦(英語版)が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。

王党派騎士党)と議会派(円頂党)の内戦は議会派が勝利して終わったが、議会派内でも内部対立がおこって第二次イングランド内戦1648年 - 1649年)が起こり、国王チャールズ1世の処刑が行われた。

王政は廃止され共和政のイングランド共和国(1649年 - 1660年)が樹立されたが、第三次イングランド内戦(1649年 - 1651年)はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し(三王国戦争英語: Wars of the Three Kingdoms)、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となったクロムウェルのアイルランド侵略1649年 - 1653年)が行なわれた。1652年には英蘭戦争第一次英蘭戦争)が始まり、イングランド内戦を制した後もイングランド共和国は安定せず、1653年には大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。1654年に英西戦争(英語版)が始まってダンケルクを占領したものの、護国卿体制は5年で破綻した。

1660年の王政復古によって清教徒革命は失敗に終わり、かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復した。しかし、星室庁や独自の財源を失ったステュアート朝の王権弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招いて、王を中心とする絶対君主制から議会を中心とする立憲君主制へと移行することになった。清教徒革命はステュアート朝の王たちが目指していた絶対主義から脱却するという点から市民革命のひとつとして分類される。現在では名誉革命と併せてイギリス革命として議論されることが多い。
内乱の前提

革命の直接の原因としてチャールズ1世が政治能力に欠けていたことは確かであるが、遠因としてはエリザベス1世治世期、特に末期にその源泉はすでにもとめられる。農村や社会構造の変化に国家体制が対応できず、社会のひずみはしだいに大きくなっていた。かつては内乱の原因として「17世紀の危機」論争などが起こった。
富農の出現

農民ヨーマン)は次第に裕福になってジェントリになってゆく者と、より貧しくなって離農する者へ二極化した。エリザベス1世は救貧法などによって社会的安定を保とうとしたものの、貧農が都市、中でもロンドンに集中して急激な人口増加をもたらした。この変化に宗教改革修道院解散も影響して、貧しい人々をみる視線が「慈善の対象」から「怠惰の結果」に変わっていった。こうして社会的・経済的に追いつめられた人々が急進的な思想を醸成していった[1]

ヨーマンや小作農の中から、次第に広い土地を持つものが出てきて、彼らはジェントリ化していった。これには、封建領主制からブルジョワ的土地経営に様変わりしたことが原因としてあげられる。すなわち、農民は階級的支配による耕作ではなく、商契約に基づく労働としての耕作という方向に徐々に変貌してゆく。その中で余裕を持てた者が、農業生産性の向上もあって、その所有する土地を漸次広げていった。そしてジェントリの一角に食い込んでいったばかりでなく、富農の発言力も強まっていった[2]
財政の悪化

当時、国家財政は急激に悪化していた。収入面では余剰生産が寄生地主・富農の手にとどまって国家まで上がってこなかったこと、支出面では価格革命による物価の上昇および戦費がかさんだことがそれぞれ原因だった。代々の王は王領地を売却することで当座をしのいできたが、すでに王領地はヘンリー8世時代の半分以下にまで目減りしていた[注 1]。結果として王室は議会の承認する税収への依存を強める一方で、中世以来の国王大権に基づいた徴発権・後見権・関税の徴収強化に乗り出して王権に基づいた財政基盤強化にも乗り出していた。これが農民のみならず、貴族商人階層の不満をも高める結果となった[3]

特にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド国王(ジェームズ1世)に迎えられてステュアート朝が始まると、財政の膨張に拍車がかかる様になり、国王からの議会に対する予算の要求が増加していった。これを危惧する廷臣グループから1610年に「大契約」と呼ばれる仲裁案が国王と議会に出されたものの結局は失敗に終わり、それ以後も財政悪化が益々深刻化する中でジェームズ1世の息子チャールズ1世が王位を継ぐ事になったのである[4]

こうした情勢にもチャールズ1世は王権神授説を捨てず、議会に対して予算を要求するのみだった。一方で議員達にとっての議会とは、地元の陳情を処理する場であった。両者の関係は次第に離れてゆき、1628年6月の「権利の請願」提出を経て1629年に、議会は解散を命じられた[5]


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