清川栄治
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清川 栄治埼玉西武ライオンズ 二軍投手総合コーチ #92
基本情報
国籍
日本
出身地京都府京都市上京区
生年月日 (1961-09-21) 1961年9月21日(59歳)
身長
体重176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1983年 ドラフト外
初出場1984年10月8日
最終出場1998年8月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


京都商業高等学校

大阪商業大学

広島東洋カープ (1984 - 1991)

近鉄バファローズ (1991 - 1997)

広島東洋カープ (1998)

コーチ歴


広島東洋カープ (1999 - 2006)

オリックス・バファローズ (2007 - 2012)

日立製作所

埼玉西武ライオンズ (2014 - 2017, 2019 - )

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清川 栄治(きよかわ えいじ、1961年9月21日 - )は、京都府京都市上京区出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者。現在は、埼玉西武ライオンズのファーム投手総合コーチを務める。目次

1 経歴・人物

1.1 プロ入り前

1.2 現役時代

1.3 引退後


2 契約更改でのエピソード

3 詳細情報

3.1 年度別投手成績

3.2 記録

3.3 背番号


4 脚注

5 関連項目

6 外部リンク

経歴・人物
プロ入り前

少年時代から体が小さく、小学校、中学校で整列するときはいつも前から2番目だった[1]。小学6年から投手を始めたが、小さいときに父を病気で亡くしており、甲子園を目指すなら、京都府では学費の高い私立学校へ進学するしかないことから、中学時代から6年間一日も欠かさず朝夕の新聞配達をして家計を助け、自宅裏にあった京都商業高へ進学した[1]

高校2年次に第60回全国高等学校野球選手権大会の2回戦でリリーフのマウンドを踏み、高校3年時はエースとして地区予選で完封もしたが準々決勝で敗退した[1]

高校卒業後は、大阪商業大学へ進学し硬式野球部に入部。大学1年春から即戦力となり、関西六大学リーグでは通算49試合に登板し24勝(当時のリーグ最多勝利記録)8敗[1]、防御率1.91、ベストナイン1回受賞。大学4年時に調子を崩したことと、同期の川原新治が77イニング無失点の新記録を出してスカウトの目を奪ったこともあり、ドラフトの指名にはかからなかった[1]
現役時代

どうしてもプロへの気持ちを捨てきれず、1983年オフにドラフト外広島東洋カープに入団[1]

しかし、当時の錚々たる投手陣の中、一軍に残るためには、上手投げからサイドスローへ転向して左打者を完璧に封じることが、唯一の活路だと思うようになる[1]。自称「本格派の投手」というように、奪三振数が投球イニング数を上回っている。投手王国といわれた当時の広島において、アンダー気味の変則サイドスローからの緩急を付けたピッチングを武器に中継ぎ投手(主にワンポイントリリーフ)として活躍。1987年には、5月16日から7月2日まで、29人連続で出塁を許さなかった。また、登板106試合目にして初勝利を手にしたという珍しい記録も持つ。初勝利の感想は、「とうとう勝ってしまった」。なお、実際にはもっと早く初勝利を挙げるチャンスがあったが、その時津田恒実がリリーフに失敗して清川の勝ち星を消してしまった。津田はこの日の試合後、合宿所の清川の部屋に何度も謝りに来たという。広島時代、先発を言い渡された試合があったが、その試合が雨で中止になり、以降先発での登板はなかった。また、初登板から114試合連続敗戦なしの日本プロ野球記録を保持していた(後に桟原将司らが更新)。

1991年シーズン途中に野林大樹との交換トレード(清川⇔野林プラス金銭)で近鉄バファローズに移籍し、ここでも貴重な左のリリーフとして投手陣を支えた。1997年に438試合連続救援登板を記録し、日本プロ野球記録(当時)を樹立した(後に橋本武広藤田宗一宮西尚生が更新)。1998年に、広島に7年ぶり復帰し(背番号は近鉄時代と同じ47)、同年に現役を引退した。1球投げただけでヒーローインタビューを受けたことがある。1死満塁のピンチで登板し、初球を打たせてセカンドゴロ併殺打の火消しだった。
引退後

引退後は、広島に残留し1999年は二軍投手コーチ、2000年は一軍投手コーチ、2001年から2005年まで二軍投手コーチ、2006年は一軍投手コーチを務めた。

2007年よりオリックスの二軍投手コーチに就任。背番号は「70」。これは仰木彬1991年から1992年までの2年間、仰木のもとでプレーした)がオリックス・バファローズ初代監督を務めた時に着けた背番号である。仰木と同じ背番号を選んだ理由として「同じ背番号を背負い、指導者として一歩でも仰木さんに近づきたい」と語っている。また、近鉄時代の監督で監督時代に背番号「70」を着けていた鈴木啓示の心も継承しているの事[2]2008年シーズン途中まで務めていたが、テリー・コリンズの監督辞任に伴いマイク・ブラウン一軍投手チーフコーチが辞任したため、一軍投手コーチに昇格しシーズン終了まで務めた。2009年からは一軍投手コーチ(ブルペン)を担当していたが、投手陣の不調により同年6月9日に一軍投手コーチ(ベンチ)に配置転換され、同年6月19日からは二軍投手コーチに降格した佐々木修の後任として一軍投手チーフコーチに昇格しシーズン終了後まで務めた。2010年からは一軍投手コーチ(ブルペン)を務め、2011年から2012年まで二軍投手コーチを務める。

2013年日立製作所投手コーチに就任、その一方で野球解説者に転身。J SPORTSFOX SPORTS ジャパンのプロ野球中継で、主に広島戦を担当した。

2014年からは埼玉西武ライオンズ一軍投手コーチに就任した[3]。背番号は91[4]。シーズン当初はベンチ担当だったが、5月27日に本部長の鈴木葉留彦によりブルペンに配置転換されることが発表された。


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