清少納言
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清少納言
せいしょうなごん
土佐光起画『清少納言図』(部分)
職業作家歌人
言語日本語
国籍日本
活動期間990年代 - 1000年代
ジャンル随筆
代表作『枕草子
配偶者橘則光
藤原棟世
子供橘則長
小馬命婦
親族父・清原元輔
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清 少納言(せい しょうなごん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:C 少納󠄁言、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代中期の女房作家歌人随筆枕草子』は平安文学の代表作の一つ。歌人としては中古三十六歌仙、そして女房三十六歌仙の一人でもある。
名前

正確な生没年や本名は不明である。生没年は、岸上慎二による推定である。本名については、江戸時代国学者多田義俊は『枕草紙抄』において清原諾子(きよはら の なぎこ)としているが、根拠は示されていない[1]。この『枕草紙抄』は考証家伊勢貞丈の遺稿集『安斎小説』にそのまま引かれたため、貞丈の著作として広まった[2]。ただし、貞丈は義俊について「偽を好む癖あり。豪傑なる者なれども其偽大瑕なる可惜哉。彼が著述の書、引書疑しき者多し。」と述べており、また『枕草紙抄』以外の書物に諾子という名前は確認されていない。

「清少納言」は宮中での女房名で、「清」は清原姓に由来するとされている。「少納言」は官職少納言に由来するものと見られるが、当時女房名に官職名を用いる場合は父親や近親者がその官職にあることが通例であった。清原氏の近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明である[3]。研究者は以下のような推察を行っている。

女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、父の清原元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞[4]

藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説[3]

花山院の乳母として名の見える少納言乳母を、清少納言の夫則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説[5]

岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ地位が反映されているとしている[6]

語呂の関係からか今日では「せいしょう・なごん」と発音されることもあるが、上述しているように「清」は父の姓から、「少納言」は役職名が由来であるため、本来は「せい・しょうなごん」と区切って発音するのが正しいと思われる。ただし略して「清少」と呼ぶことは江戸時代より一般的に行われていた。
出自

父の清原元輔は、受領などを務める下級貴族であったが、『万葉集』の読解と『後撰和歌集』の選者(梨壺の五人)を務めた著名歌人として知られていた。曽祖父(系譜によっては祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。

鎌倉時代に書かれた『無名草子』などに、「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする古伝があるが、実証する一級史料は現存しない。檜垣嫗自体が半ば伝説的な人物であるうえ、元輔が檜垣嫗と和歌の贈答をしていたとされるのは最晩年の任国である肥後国においてであり、清少納言を彼女との子であるとするには年代が合わない[7]
経歴

生年は康保元年(964年)(北村季吟説)、天禄元年(970年)(坂元三郎説)、天禄2年(971年)(関根直道説)などの推定があったが、則長を出産した際に17歳程度とし逆算して康保3年頃(966年)とする岸上慎二説が発表されて以来、ほぼ定説となっている。これに従えば、元輔が59歳頃の所生となる[8]

天延2年(974年)、父・元輔の周防赴任に際し同行、4年の歳月を今の山口県防府市にて過ごす。なお、『枕草子』第290段における船旅の描写の迫真性は、同段落に「わが乗りたるは(私が乗った船は)」とあるので、作者父親の赴任に伴い、水路を伝って行った実体験と考えられる。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。

天元4年(981年)頃、藤原斉信家司橘則光965年 - 1028年以後)と結婚した。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』では則光は武勇に優れ世の評判も高い人物として語られており、『金葉和歌集』にも詠歌が入選しているが、『枕草子』八〇段では少納言の謎かけにも気づかず、和歌も極端に嫌う人物であると描写されている[9]。一子則長982年 - 1034年)を生むものちに夫婦関係は破綻している。しかし関係が完全に解消されたわけではなく、清少納言が定子に出仕した頃も則光とは妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったとされる。『枕草子』八〇段によれば「何ともなくて、 すこし仲あしうなって(なんとなく仲が悪くなり)」、則光が遠江介となった長徳4年(998年)頃に別離したとされる[9]。のちに、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた[10]

一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で気が強い彼女は、主君定子の恩寵を被り、一条院内裏の北の二の対に、局として小廂を賜っている。『枕草子』「二月つごもりごろに」106段では、源俊賢が清少納言の機知を賞賛して「なほ内侍(掌侍)に奏してなさむ 」と語ったとある。このことから角田文衛は、清少納言の職階を命婦と推定した[11]

漢学にも通じ、『枕草子』 第197段、第299段の「香炉峰の雪」のエピソードは白居易の『白氏文集』の詩をもとにしたエピソードである。また第8段では『蒙求』などに引かれる前漢丞相于定国が門を広く作ったことを踏まえた会話を行っている。特に恋人ともされる藤原実方(? - 998年)との贈答が知られる。

長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞した。古伝には淑景舎御匣殿上東門院などへの出仕説もあるが明確な根拠はなく疑わしい[8]。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『清少納言集』の異本には内裏の使いとして蔵人源忠隆が摂津に来たという記録がある。角田文衛はこの使者は、清少納言に定子の遺児の?子内親王脩子内親王の養育を要請したものと推定している。


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