清國勝雄
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清國 勝雄

基礎情報
四股名若い國 忠雄→梅ノ里 忠雄→清國 忠雄→清國 勝雄→清國 忠雄→清國 勝雄
本名佐藤 忠雄
生年月日 (1941-11-20)
1941年11月20日(82歳)
出身秋田県雄勝郡雄勝町(現在の湯沢市
身長182cm
体重133kg
BMI40.15
所属部屋荒磯部屋→伊勢ヶ濱部屋
得意技左四つ、寄り、押し
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴706勝507敗32休(103場所)
幕内戦歴506勝384敗31休(62場所)
優勝幕内最高優勝1回
殊勲賞3回
技能賞4回
データ
初土俵1956年9月場所[1]
入幕1963年11月場所[1]
引退1974年1月場所[1]
引退後年寄楯山伊勢ヶ濱部屋師匠
備考
2015年8月14日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

清國 勝雄(きよくに かつお、1941年11月20日 - )は、秋田県雄勝郡雄勝町(現・湯沢市)出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は荒磯部屋)に所属した元大相撲力士。本名は佐藤 忠雄(さとう ただお)。最高位は東大関。現役時代の体格は182cm、133kg。得意手は左四つ、寄り、押し[1]

十両玉ノ国、元関脇玉乃島の兄弟は甥。二男の嘉由生は林家木久扇門下の落語家、林家希林

現夫人は国宝犬山城12代目城主平岩親吉の末裔。
人物

中学3年時に同郷の元横綱照國の荒磯部屋から熱心に勧誘され、夏休み中の体験入門だけのつもりで上京したが両親の同意や住民票の移転など根回しされたことで観念して入門を正式決定。1956年9月場所初土俵。横綱・大鵬とは同期だった。のち親方の名跡変更(6代伊勢ヶ濱)で伊勢ヶ濱部屋所属となった。まだ幕下時代の1962年5月場所、「梅ノ里」より「清國」に改名。「清」は5代伊勢ヶ濱の元関脇・清瀬川より、「國」は師匠の照國より付けられたものであり、それだけ素質を評価されていたということである[2]。素質はあるにもかかわらず当初は相撲が嫌いであったためあまり稽古熱心とはいえず、1日稽古すると翌日は不調を訴えて稽古から逃げるのがお決まりであった。その様子を指して24時間勤務からの24時間休みが常態であった当時のタクシー運転手に準えた「運ちゃん」というありがたくないニックネームを師匠から付けられていた[3]が、後輩の淺瀬川に十両昇進で先を越されて発奮し、ある日部屋の若二瀬を稽古場で立合いの一撃により勢い良く転がしたことから後に通ずる立合いを会得し、そこから稽古に打ち込んだ[4]1963年5月場所に十両に昇進、3場所で十両を突破して同年11月場所に新入幕を果たした。その翌場所の1964年1月場所は強烈な右おっつけを武器に初日から14連勝、横綱・大鵬とともに勝ち放し、同期生の優勝決定戦かと騒がれた。しかし、千秋楽に関脇・大豪に当てられて敗れ14勝1敗、優勝はならなかったが、技能賞を獲得[1]。この活躍から北の富士若見山と「若手三羽烏」と称された。なお、この場所では前場所優勝の大関・栃ノ海の横綱昇進がかかっており、13勝2敗ながら清國のよもやの大健闘で優勝次点にすらなれないという珍事が起きたが、場所後栃ノ海は横綱に推挙されている(直近場所が優勝、相星、次点のいずれにもあてはまらないというケースは、年6場所制以後ではこのケースのみである)。翌3月場所には前頭13枚目から一気に関脇に昇進し、その後も上位に定着。1967年11月場所からは三役を10場所連続で務め大関候補として評判になった。1969年5月場所で12勝3敗の好成績を挙げ、場所後に大関に昇進した。

新大関で迎えた1969年7月場所では千秋楽に大鵬との相星決戦を制して12勝3敗の成績を挙げ優勝決定戦に進出、前頭5枚目・藤ノ川を破り初優勝を果たした[1]。新大関の優勝は1959年11月場所の若羽黒以来の快挙、立浪・伊勢ヶ濱連合内での稽古が実を結んだ形となった[5]。この場所横綱・柏戸が引退して大鵬の一人横綱となっていただけに一気に横綱昇進の絶好の好機となったが、翌9月場所2日目の小結・麒麟児(後の大関・大麒麟)戦で頸椎を故障。それが結果的には大関どまりになる原因の一つとなった。

きちんと両手をついて立合いを行う力士であり、1970年前後の、手をつかないことが常態化していた時代に、清國の立合いや土俵態度は賞賛された[1][6]。また、それを生かした〈後の先〉の立合いで横綱・玉の海に勝ったこともある。腕力が非常に強く、それを生かしたおっつけ小手投げは大鵬はじめ相手力士の腕を痛めることがたびたびあり「壊し屋」の異名をとった[7]。時折もろ差しになられても両腕(かいな)で閂(かんぬき)に極め、豪快に極め出すこともあった。四つは左でも右でもとれる『なまくら四つ』でもあった。ただ幕下にいた頃は豪快に投げないと気が済まない相撲ぶりから中々関取に昇進できずに停滞していた[3]錦絵から抜け出したような風貌で「綺麗なお相撲さん」として巡業では大鵬以上の人気があった。なお、横綱・北の富士との幕内通算対戦は52回を数え、当時の大相撲歴代最多記録だった(2018年7月場所終了現在の史上最多記録は大関・琴奨菊?横綱・稀勢の里戦の66回)。

現役末期は心臓疾患に苦しみ、これ以上現役を続けると命に関わると判断した末に1974年1月場所中に引退。その後はしばらく年寄楯山を襲名していたが、1977年の師匠・伊勢ヶ濱の死去により7代伊勢ヶ濱を襲名して部屋を継承した[1]。親方としては前頭筆頭まで出世した若瀬川らの関取を輩出し、日本相撲協会では理事として、主に地方場所部長(九州場所担当)として活躍した。

親方時代は様々な災難に遭遇した。1985年8月12日には前妻と長男、長女を日本航空123便墜落事故で失い[注 1][8]、その後再婚して1989年に二男・嘉由生[注 2]林家希林)をもうけるも、現妻を追い出そうとした親方の近親者が週刊誌に捏造記事を売り、現妻の名誉を傷付け、さらに文京区白山の土地5億円を詐欺により詐取されたりした。後に本事件は詐欺を行った者が逮捕され、現妻の名誉も回復した。ホテルを転々とするなど部屋運営に苦労したが、夫人の尽力もあって千葉県柏市台東区に部屋を創設した。

1996年2月に理事から役員待遇に退いたが、2004年9月に週刊ポスト誌上で一門の総帥でありながら甥の玉乃島[注 3]をはじめとした現役力士の無気力相撲を批判したことで役員待遇を解かれ、同年11月場所より監察委員に就任した。

2006年11月場所中に協会を停年退職。伊勢ヶ濱部屋は部屋付きの10代・若藤(元前頭・和晃)が清國と名跡交換して、8代・伊勢ヶ濱を襲名し部屋を継承。


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