清和会
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清和政策研究会陰十四菊
略称清和研
清和会
安倍派
福田派→
安倍派→
三塚派→
派→
町村派→
細田派→
安倍派)
前身十日会(派)
設立1979年1月24日[1]
設立者福田赳夫
解散2024年2月1日[2]
種類自由民主党の派閥
本部塩崎ビル3階
所在地東京都千代田区平河町二丁目7番1号
会長(空席)
関連組織愛正会藤山派)
交友クラブ川島派)
政眞会加藤グループ)
保守団結の会
予算328,712,111円(2010年)[3]
かつての呼び名清和会
21世紀を考える会・新政策研究会
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清和政策研究会(せいわせいさくけんきゅうかい、英語: SEIWAKEN)は、かつて存在した自由民主党の派閥。1979年1月24日に福田赳夫を中心に「清和会」として結成された[1]安倍晋三会長の死から13日後の2022年7月21日に開かれた総会で、「安倍派」の名称を継続して使用することが確認された[4][5]政治資金パーティー収入の裏金問題を受け、2024年1月19日に解散の方針が決定され[6]、2月1日に最後の議員総会が行われた[2][7]
概説

自民党内では、平成研究会宏池会と並ぶ名門派閥であり、保守合同時の日本民主党(更に古くは日本自由党岸信介鳩山一郎派)の流れを汲む。

保守本流と呼ばれる平成研究会宏池会系3派閥に対する、日本民主党の「反吉田茂」路線を起源に持ち、保守傍流と呼ばれる派閥の一つである。親米を基調としながらも自主憲法論憲法改正論を唱え、再軍備に積極的であるなど比較的タカ派色が強く、冷戦期にはその反共主義志向の反映として、大韓民国中華民国(台湾)に独自の人脈を持った。一方で創設者の福田赳夫とその氏族は親中派の有力者であり、赳夫が総理大臣の時代には日中平和友好条約を締結し、息子の康夫が総理大臣の時代には胡錦濤との日中首脳会談「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」を発表、総理・代議士引退後も中国と非公式の会談を度々行うなど、必ずしも反中共の派閥という訳ではない。

岸派を川島正次郎と分けた福田赳夫から続く自民党の有力派閥であったが、「角福戦争」以降、他派閥が田中派(後の経世会→平成研究会)の支持なしに内閣総理大臣自民党総裁になることが困難な時期が続いたため(いわゆる「田中支配」)、田中と対立関係にある福田が領袖である間は、福田政権の2年間を除いて非主流派に甘んじることが多かった。福田から派閥を引き継いだ安倍晋太郎は幹事長として竹下政権を支えたが、総裁の座を目前にして病に倒れた。1993年の経世会分裂以降は三塚博、森喜朗といった実力者が執行部入りして主流派となることも多かったが、安倍の死去後は派内の内紛が耐えない時期でもあった。森内閣において福田以来久々に総裁派閥となったが、森内閣は小渕内閣を継承しており、平成研究会の影響が強かった。

創設者の福田赳夫は大蔵省(財務省の前身)官僚の出身で銀行等の金融業界に力を持っていたとされるが、田中派ついで竹下派の全盛時代に、その他の各種業界との関係は田中派・竹下派らの族議員に握られていき、また、財界主流との関係も薄れていったとされる。清和会が名実ともに総裁派閥の主流派として実質的に政権の中枢を担うようになったのは、小泉内閣以降である。第二次以降の安倍内閣においても、二階派の二階幹事長(当時)が各種業界との窓口になったことで業界とのつながりが広がらず影響力があるのは文教関係と運輸業界くらいとされ、一方で自派議員数拡大のため「安倍チルドレン」と呼ばれる新人議員を増やしたことから、資金力の弱い議員が多く、一説にはそれが世界平和統一家庭連合(統一協会)との関係やパーティ券販売のキックバックを利用した裏金作り疑惑の土台となったとする見方がある[8]

2022年7月の安倍晋三銃撃事件以来、清和研と世界平和統一家庭連合(統一協会)との関係がマスコミや識者から指摘されている[9]。本事件後、複数の政治家に旧統一教会との接点があったことが明らかになった[10]。弁護団とともに旧統一教会を調査しているジャーナリストの鈴木エイトは、旧統一教会と関係を持つ政治家は自民党を中心に多数いると指摘した[9]
事務所塩崎ビル(千代田区平河町)。清和政策研究会が入居する

福田派時代にグランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)の旧館(旧李王家邸)内に事務局を設置し、同ホテルで毎年1回春頃に政治資金パーティーを開催することが慣例となっていたが、同ホテルの営業終了に伴い、2011年2月、平河町に移転した。
歴史
岸派解散と党風刷新懇話会結成福田赳夫

1955年に保守合同時の日本民主党側(岸信介派や鳩山一郎派)の流れを汲む。1962年池田勇人宏池会)の「所得倍増計画」に異を唱える福田赳夫を中心として、十日会(岸信介派)から分裂し、派閥横断で結成された党風刷新連盟(結成当初は党風刷新懇話会)が起源[11][12]。同年10月30日に岸信介によって、十日会の解散が宣言された[13]

1964年11月9日で池田内閣が終わり、同日、佐藤栄作が内閣総理大臣に就任した。党風刷新運動が終了した後には、福田の下には24名の国会議員のみが残った。彼らは、岸派事務所があった赤坂プリンスホテル旧館を活動拠点にし、「事実上の福田派」として活動するようになった[14]
福田派

1965年6月3日、第1次佐藤第1次改造内閣が発足。佐藤栄作は、自由党時代から実兄の岸信介に仕えていた福田赳夫大蔵大臣に抜擢し、党幹事長には自派閥の田中角栄を起用した。

自民党総裁選8日前の1966年11月23日、佐藤は記者会見の場で、「右腕」の田中には何も知らせず、党幹事長を別の者に交替させると発表した[15]


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