清原致信
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 凡例清原致信
時代平安時代中期
生誕不明
死没寛仁元年3月8日1017年4月7日
官位大宰少監
主君後一条天皇
藤原保昌
氏族清原氏
父母父:清原元輔
兄弟為成、戒秀、致信、正高清少納言
藤原理能室
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清原 致信(きよはら の むねのぶ)は、平安時代中期の官人肥後守清原元輔の子。妹に清少納言がいる。官職大宰少監
経歴

大宰少監などを務め、藤原保昌の郎党としても行動していたが、寛仁元年(1017年)3月8日の夕刻に平安京の六角福小路の邸宅を源頼親の指示する7-8騎の騎兵および10余名の歩兵に襲われ殺害された[1]。これは大和守を務めていた主君保昌が同国内の利権を巡り源頼親(保昌の甥)と競合した際、大和の在地領主で頼親の郎党であった右馬允・当麻為頼を殺害したことに致信が関与したことに対する報復であったと考えられている。なお、源頼親はこの殺害の罪を問われて、右馬頭淡路守官職を解かれた[2]

なお、致信を襲撃したのは頼親の実兄である頼光に仕えた頼光四天王の仕業とされ[3]、この事件の背景に頼光と保昌の緊張・対立関係を反映していると考えられていたとする見方もある[4]。また、この際に清少納言が同宿していたことから、致信と清少納言を同母兄妹とする見方がある[5]
脚注^御堂関白記』寛仁元年3月11日条
^ 『御堂関白記』寛仁元年3月15日条
^古事談』第2臣節57「清少納言、開を出だす事」
^ 外山信司「藤原保昌伝承と千葉氏-『千学集抜粋』の酒呑童子説話をめぐって-」(佐藤博信 編『中世東国の社会と文化 中世東国論:7』(岩田書院、2016年) ISBN 978-4-86602-981-8
^ 岸上[1962: 50]

参考文献

倉本一宏『藤原道長 「御堂関白記」 下 全現代語訳』2009年、講談社

元木泰雄『殺生放逸 朝家の守護 源満仲・頼光』2004年、ミネルヴァ書房

岸上慎二『清少納言』吉川弘文館〈人物叢書〉、1962年


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