清原 和博西武ライオンズ選手時代
(1990年10月13日、川崎球場にて)
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府岸和田市
生年月日 (1967-08-18) 1967年8月18日(56歳)
身長
体重188 cm
104 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1985年 ドラフト1位
初出場1986年4月5日
最終出場2008年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
PL学園高等学校
西武ライオンズ (1986 - 1996)
読売ジャイアンツ (1997 - 2005)
オリックス・バファローズ (2006 - 2008)
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清原 和博
人物
職業野球評論家
YouTube
チャンネル
清ちゃんスポーツ
活動期間2020年12月12日 -
ジャンル野球
バラエティ
登録者数52.2万人
総再生回数9897万回
事務所(MCN)笑軍
YouTube Creator Awards
登録者100,000人2020
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002024-01-05-00002024年1月5日時点。
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清原 和博(きよはら かずひろ、1967年8月18日 - )は、大阪府岸和田市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球評論家、タレント、YouTuber。愛称は「お祭り男」「(球界の)番長」。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none} 高校野球の甲子園大会での通算本塁打数の最多記録保持者(13本。春に4本、夏に9本[1])。 NPBでは1986年から2008年までの23年間にわたり、西武ライオンズ、読売ジャイアンツ、オリックス・バファローズの3球団でプレーした。 NPBにおける打率(.304)、本塁打(31本)、打点(78点)、塁打(236本)の高卒新人記録保持者。サヨナラ安打(20本)、サヨナラ本塁打(12本)、オールスター通算打点(36打点)、オールスターMVP(7回)の最多記録保持者。プロ入りから21年連続2桁本塁打、13年連続20本塁打以上の日本記録保持者。西武ライオンズでの四番出場数1121試合の球団記録保持者。巨人在籍185本塁打の移籍入団選手の最多記録保持者。 2000本安打達成者の中で安打に占める本塁打の割合は、歴代で王貞治に次ぐ2位である。 通算196被死球はNPB記録[2]。 1967年8月18日、大阪府岸和田市で生まれた。3姉弟の長男で、姉と弟がいる。生家は電器店(東芝ストアー)を経営していた[3]。 父は阪神タイガース(阪神)ファンで、父以外の家族はみな読売ジャイアンツ(巨人)ファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育った[4]。 1974年、岸和田市立八木南小学校に入学し、野球を始めた。 1976年5月に岸和田リトルリーグ(硬式野球)の部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団。なお、小学3年生の時点で、すでに身長が155cmあり、入団テストの遠投では70mを記録したとのこと[5]。毎日祖父から100円を貰い練習をしていた。 1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。投手としても才能を発揮した。この頃、岡田圭右との対戦もあった[6]。 1980年、廃止された春木競馬場や現存する岸和田競輪場に程近い岸和田市立久米田中学校に進学すると共に、岸和田シニアリーグに移った[注 1]。そこでは中学2年生にしてキャプテンとなり、関西シニアで優勝を果たす。 1983年、高校は30校近いスカウトの中から、大阪府富田林市のPL学園高校(当時は全寮制)を選んだ。なお、清原の母親は奈良県出身であり、清原へ「奈良県の強豪の天理高校から甲子園大会に行ってほしい」と幼少のころから言い聞かせていた[7]。 しかし、PL学園野球部は全員が野球部専用の寮に居住しており、その寮の部屋での集団生活は極めて過酷な環境であった。 同部の1年生は上級生への絶対服従および早朝から深夜までの雑用を強いられてしばしば殴られ、心身ともに徹底的に追い詰められた。娯楽は一切存在しなかった[7]。詳細は当該記事を参照。 それを知らずに入学した清原も日常的に殴られており[注 2]、一度は涙を流したことがあった[7]。 その極限生活の中、唯一の癒しとなったのが、母が密かに差し入れてくれた森永製菓のキャラメルであった。1年生は菓子類の摂取を禁止されていたが、母は清原に「靴下」を差し入れ、靴下の先へキャラメルを少しずつ隠し入れた[7]。 また、寮で上級生たちが食事をする際、1年生に不手際があると茶碗を顔へ投げつけられた。それを避けるとひどく殴られるため、わざと当たりにいかなければならなかった。清原は「この経験が、のちにプロ野球で死球を避けずに当たりに行く姿勢に繋がったのかもしれない」と語っている[7]。
概要
高校時代まで
生い立ち
小学校時代
中学校時代
高校時代
PL学園へ
過酷な寮生活
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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